【論壇】 死刑と教育 宮平望(西南学院大学教授) 2008年10月18日

■「最高」責務を負う国家と主権者の権利


 死刑を廃止しなければならないのは、死刑によって日本が国家として死刑囚に対する責務を放棄しているからである。日本の「最高法規」(第九八条)であると自己規定する憲法は、「教育」と「勤労」と「納税」を国民の義務として定めている(第二六条、第二七条、第三〇条)。これは、日本国民が最短でも小中学校において義務教育を受け、その後には就職して労働し、その成果に応じた税金などを納める義務である。
 しかし、「主権が国民に存する」ことを考慮するなら(憲法前文)、国家は主権を担う国民一人ひとりに対して制度的に適切な義務教育を施し、自由に選択できるだけの十分な労働の機会を提供し、強制徴収している税金を公正に活用する「最高」の責務を負っているはずである。
 したがって、義務教育の教員の不正採用、生徒の人格を育成せずにその人権を侵害する指導、不安定な雇用形態の組織的な容認、苦役を強要するような労働環境の放置、税金の不正使用や予算消化のための税金濫費などの横行は最も深刻な憲法違反である、と追及する権利が主権者である国民にはある。


■義務教育が果たすべき最低限の役割


 このような視座に基づけば、死刑によってその罪を問われなければならないような人の責任の所在の大本は国家にある。死刑に値する人の「人格」を形成してきた要因と最も深く関係しているのは、憲法の定める3つの義務の中では言うまでもなく義務教育であり(教育基本法第一条、第五条)、勤労でも納税でもない。すると、死刑に相当する罪は何人も容認しえないものであるにもかかわらず、そのような罪を犯す人が登場するということは、義務教育が機能不全に陥っているということである。
 逆に言うと、義務教育の最低限の役割は、死刑によってその責任を問われるような人を生み出さない点にある。それにもかかわらず死刑囚を処刑するということは、国家が義務教育による人格の形成に瑕疵(かし)を残しておきながらその責任を引き受けずに、その瑕疵(かし)を自ら抹殺することに等しい。


■犯罪者の責任


 死刑囚の罪の責任をその親に追及する見解もある。確かに、死刑囚となるような人格を形成した要因は複層的であり一元的に収斂(しゅうれん)できないが、親権を行う者の子に対する監護教育義務は民法における規定である点で(第八二〇条)、国家の最高法規ではなく、義務教育者ほどの最高の責務を問われない。
憲法の規定において保護者は、最低限その子を小中学校で教育を受けさせる義務を負うのみであり(第二六条②)、その人格の完成を目指して教育する義務を直接負う小中学校の教員ほどには負っていない。
 また、死刑の宣告を受けざるをえないような犯罪者の責任は、常識的にその本人にあるとも言える。しかし、このような直截的な理解は、死刑囚の人格を形成してきた最高責任主体が義務教育を施す国家にあり、死刑囚となった人の小中学校の教育はその保護者に対する義務であって、本人にとっては権利でしかないことを見落としている(第二六条①)。
 以上のような問題点と共に外国で、または戦前に、現在の日本の小中学校に相当する教育を受けた国民に対する義務教育の再開または継続という責務を国家は担っている。
(みやひら・のぞむ)


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