〝宗教家〟招き葬儀を語る 市民団体が東京・三鷹で勉強会 2016年6月4日

 「死とは何か」「葬儀とは何か」という誰もが直面する課題に正面から向き合い、宗教者と一緒に考えようという勉強会「シリーズ『市民のお葬式』パート1・宗教家と語るお葬式」が5月7日、東京都三鷹市の市民協働センターで開かれた。

 主催したのは地元住民らが中心となって活動する団体「2025年問題研究会」と「みたか・みんなの広場」。これまでも高齢化社会における医療や介護の問題についてさまざまな取り組みを続けてきた。登壇したのは浄土宗信楽院副住職 内田智康氏と日本同盟基督教団和泉福音教会牧師の青木義紀氏=写真。参加した市民ら約60人は、専門家の話に熱心に聞き入っていた。

「葬儀は生を見つめ直す機会」

 手間暇も時間もかからない葬儀を望む傾向について内田氏は、「しっかりお別れしなかったがために、心の整理がつかず後悔する例もある」と、遺族のためにもよく考えて選択することを奨励。「『家族に迷惑をかけたくない』との思いから葬儀をしないことを望む人もいるが、むしろ遺族のためにも十分な刷り合わせと合意が必要ではないか」と提起した。

 また、「お坊さん便」など、昨今の僧侶紹介業の隆盛についても触れ、仏教が「演出の一環でしかなくなってくる」ことの問題性を指摘。仲介業者の見定めが肝要で、派遣される僧侶も多くは問題ないが、事前にリサーチをして信頼できる宗教者や業者とのつながりを日ごろから持っておくことが重要だと強調した。

 「『老病死』が日常から隔離された時代に、自分もいずれ死に至るということを実感として考えられる機会が減っている中、死に向き合うことが日々の生活をより良いものにする第一歩になる。その指針が仏教にはある」

 これに対して青木氏は、キリスト教における死は終着点ではなく、死の向こうにも生きる世界があるという人生観を紹介。「身近な人を亡くすことは悲しいが、この地上では会えないというひと時の別れに過ぎない。やがて死者には再び会えるという希望と、神に創られた人間が再び神のもとに帰るという安心感がある」

 また、キリスト教の葬儀には「魂の供養」という要素がなく、故人の生涯や足跡、存在そのものを偲ぶことを重視するとし、その特徴として「悲しみはあるが絶望がないこと」を挙げ、「遺族や関係者にとっては慰めの時であり、自らもやがては死すべき存在であることを思い起こし、生を見つめ直す機会。基本的に縁起や忌むべきものという概念がない」と述べた。

 中心メンバーの成清一夫さんは、僧侶だけでなく牧師も招いた理由について「比べてみなければわからない」と答えた。

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