【画像】 〝ゆるいキリスト教〟の再発見 『キリスト教は役に立つか』で書きたかったこと 来住英俊神父インタビュー 2017年6月17日

【画像】 〝ゆるいキリスト教〟の再発見 『キリスト教は役に立つか』で書きたかったこと 来住英俊神父インタビュー 2017年6月17日

 来住英俊神父の最新刊『キリスト教は役に立つか』が注目を集めている。
 数々の著書の中で常に意識してきたのは、教会の「外」に対する発信。しかし、意外にもカトリック教会内での評価は「本を出し続けてご立派ですね」というものが少なくなく、その言外には「現場を知らない」との意味も込められているという。
 それでも、「ここに神の導きあり」との確信がある。連続インタビュー「教会の彼方」の最終回は、「物言う」神父の原動力に迫った。


 本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。
 使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。
 わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。
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 書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。
 「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。
 もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。
 イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「~であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。
 社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。
 「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。
 今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。

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