【聖書翻訳の最前線】新改訳2017 8「私の敵をよそに」2018年10月21日

「私の敵をよそに」(詩篇23:5)

 

詩篇23篇は「は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」から始まる、詩篇の中でも最も有名なダビデの賛歌です。

『新改訳聖書』の今回の改訂版では、

 

[2017]私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え

頭に香油を注いでくださいます。

私の杯は あふれています。

 

と訳しています。従来の新改訳は

 

[第三版]私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、

私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

 

と、「私の敵の前で・・・・・・私のために・・・・・・」という文語訳以来の邦訳聖書の伝統にしたがっていました。しかし、この訳にはいくつかの問題点があります。

 

まず、レファナイというヘブル語前置詞句の通常の意味が「私の前で」であって、「私のために」と訳されるのは、次のような非常にまれな慣用表現の場合に限られます。

 

創世記24章12節

「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、

私の主人アブラハムに恵みを施してください。

 

創世記27章20節      

「あなたの神、主が私のために取り計らってくださったのです。」

 

しかし詩篇23篇5節のレファナイは、「私の敵の前で」の前置詞ネゲドとの調整のために、恐らく「私のために」と訳されたのではないかと思われます。

 

しかし、ここで大切なのは、羊飼いと羊と敵、これら三者の位置関係です。従

来の邦訳の様に、「敵の前」であると、敵が羊である「私」との至近距離にいるような感じがします。しかし、羊飼いがそばにいれば敵は羊に近づけないのですから、ここはむしろ、敵が羊飼いと羊のいるところからは少し距離を置いて、羊を狙っている状況がふさわしいのではないかと思います。

 確かに前置詞ネゲドは「そば」とか「直ぐ近く」という意味がありますが、レファナイ(直訳「私の顔に」)と比べると、もう少し距離があると考えられます。敵がいることは意識しつつも、「敵をよそに」、羊飼いが羊をねんごろに世話をしている状況を思い浮かべるのが自然な解釈ではないかと思います。したがって、レファナイは、通常の意味で「私の前に」と訳すのがよいと思います。

 

 また、ヘブル語シュルハンは、文字通りに訳すと「食卓」です。「第三版」のように、「食事をととのえ」ですと、これから料理をするような印象を与えます。ここで言われているのは、むしろ「食卓を整えて食べさせる」あるいは「養う」というイメージではないかと思われます。

 

なお、二行目の冒頭の「私の頭に」は、「2017」では「私の」を省いて「頭に」とだけ訳しています。トランスパレントな訳を心がける『新改訳』としては、その原則に反しますが、話者自身の身体用語に付いている人称代名詞は省くことが出来るというもう一つの翻訳原則にしたがって、簡潔な訳出としました。

 

 詩篇23篇のような、誰もが暗唱しているような聖書箇所は原則としては変更しない方がよいと言われる中、変更しないでこのままにしておくと、これから30年間後悔するのではないか。そうならば、今変えるべきものは変えようということになりました。訳し変えたいから変えるのではなく、責任をもって変えておきたい。そういう思いで改訂した箇所の一つです。


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