【トナリビトの怪】(6)ダニエル書における二つの謎 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

 「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な著者らによって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を本紙にて全文公開する。(6/8回)

  1. 地球をつかむ神の手
  2. キリスト教と弱い主体
  3. 世界民俗学とキリスト教
  4. 怪談「ジーマー」
  5. 怪談の形式と啓示の形式
  6. ダニエル書における二つの謎
  7. 太平洋弧に立つイエス
  8. 遅れた解題とあとがき

 

ダニエル書における二つの謎

 「怪談の形式」は、死者と生者が共鳴反響する「ある場所にまつわる声」であり、「死者と生者の交換可能性を担保する場所の記憶」である。どうすれば聖書にひそむ「場の記憶」を辿ることができるだろう。

 ダニエル書は、キリスト教でいう旧約聖書、または本来、古代イスラエルの宗教的文書で「諸書」に収められた巻物である。ダニエルという信仰深い青年を中心に話が進む。選ばれた契約の民であったにも関わらず、神への反逆の結果、古代イスラエルが敗戦亡国を経験して、異教の帝国に捕囚された経緯が記されている。ダニエル書は黙示録と同様に難解なことで知られている。理由が二つある。

 一つは、二つの言語で書かれていることだ。1章が全体の序章であり古代イスラエルの母語としてのヘブライ語、2章4節から7章終わりまでは当時の国際公用語であるアラム語、8章から終章にいたるまでが、再びヘブライ語で書かれている。なぜ二カ国語で記され保存されてきたのか、聖書学上の問題であった。

 もう一つの理由は、日本語でいう五七五のように洗練され、織り込まれた文学構造の解釈だ。すなわち、二カ国語で書かれながら、明らかな文学的技巧が凝らされていること、これをどう解釈するのか、ということが難解さの原因である。ぼくは、怪談として聖書をみなすことで、この問題に応えたい。

 第一の問題は、二つの言語の問題である。二か国語で記されたこと自体が、テクスト内に込められた「場の記憶」を呼び覚ます。ダニエル書が読まれるとき、人々はこの書の「場の記憶」を辿ることになるだろう。

 ヘブライ語部分は、当然、母語として音読される。聞き手は、敗戦亡国の記憶とともに祖国に倒れたままの同胞の亡骸と自己の交換可能性を思わずにはいられないだろう。次に来るのはアラム語部分だ。アラム語は、新バビロニア帝国で通用した公用語である。つまり異教の帝国下に連行されて、名前を奪われアラム語名で呼ばれる同胞の物語が、他国の言語で披歴される。言語と文化を奪われ抑圧され、帝国という一元化の原理に組み込まれて「主体」化されたダニエルたちの声が聞こえてくる。

 しかし、次のヘブライ語部分において「神の声」が再びヘブライ語で語りかけてくる。ペルシャ帝国下で死者のように倒れている民、聞き手を見捨てない神の約束の幻視が人々に宣言されるのだ。この構造で、ダニエル書は亡国の故郷、異教の帝国下の現在、そして神の約束の地へという「場の記憶」を想起させるのだ。すなわち、ダニエル書は古代イスラエル「固有信仰」の声としてのヘブライ語が、「主体」化を要請する普遍性の帝国としてのアラム語部分を挟む多声的な構成となっている。

 すなわち二言語で記された理由は、「場の記憶」を辿らせるためではないか。なぜならダニエル書においては「場の記憶」を辿ることが、そのまま「神の声」を聞くことに重なっているからだ。

 では、第二の問題、文学構造はどうか。ある文章が文学構造を持つことは、語句と音韻の対応を意味している。すなわち、ダニエル書は朗読を前提している。当時、それぞれがテクストを所有し、各自で黙読する現代のような文化はなかった。特定の家や場所での朗読によって、神の声を聞いていた――それは、朗読の共同体を要請するのだ。

 委細は省くがダニエル書の全体構造は、一章が書物全体の主題を提示している。主題は「神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした」である 。この侍従長は「宦官の長」を意味する語が使われている。基本的に宦官は、古代イスラエルにとっては民から排除すべき人間だった。ダニエルにしてみれば、宦官の長は自国を滅ぼした異教の帝国の臣下である。

 しかし宦官の長は「好意を示し親切にした」。こう訳される箇所に、ヘブライ語の「ヘセド」がある。「ヘセド」は旧約聖書において、神が罪深い人類を「赦す」ときに使われる語である。本来、神の永遠の愛と恩恵を示すことばだ。

 驚くべきことに、ダニエル書において、ヘセドは、神からではなく、憎むべき敵の口から、呪われた宦官の口からやってくる。ヘセドを語るにふさわしくない、許容できない相手が、それを語る。朗読が、ありうべからざるヘセドを、その「場の記憶」として生成する。ダニエル書が読まれるとき、朗読者も聞き手も、誰もが驚いたであろう。

 忌むべき滅ぶべき敵を通じて、神はダニエルに恩寵を示した。この驚異こそが朗読によって明らかになるダニエル書の主題である。

 ダニエルの巻物が開かれ、語られ聞かれるとき、神の声は、ありうべからざるものを語る。テクストに込められた「場の記憶」を辿るとき、あるいはそのテクストが、ある場において朗読されるとき、「神の声」は「つきもの」として多声化する。神から下される超越的で単声的な「赦し」が、それぞれ場における個別で多声的な「赦し」に読み替えられる。西洋近代的自我が聖書を主体的に読むとき、多声的な場の記憶は、ありうべからざるものとして排除される。

 しかし、そのありうべからざる神の声が、敵から届く神の恩寵を示している。それは、自他、友と敵、生者と死者の交換可能性の地平を出現させるのだ。

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※次回更新は6月14日(月)朝6時

23) ダニエル書1章9節『新共同訳聖書』

波勢邦生

 はせ・くにお 1979年岡山生・キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター

【トナリビトの怪】(5)怪談の形式と啓示の形式 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37

※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37

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