【映画評】『つぐない』/『レイチェルの結婚』/『マイ・ブラザー』 ヒューマニズムの限界について考える3本
宗教などいらないという人がいる。宗教は古代人の作り上げた不合理な迷信にすぎず、人間の理性と現代の発達した知識さえあればどんな問題も解決できるというのだ。これを世俗的ヒューマニズムと呼ぶ。ハリウッド映画はその宣伝役として、これまでに膨大な数の映画を作ってきた。表向きはキリスト教的意匠に彩られていても、最終的な落としどころはヒューマニズム。だからこそ、宗教的なバックボーンが異なる世界中の国々でもハリウッド映画は受容されてきた。だが、ヒューマニズムは万能ではない。
「つぐない」は、少女の嫉妬が生み出した噓によって愛し合う男女が引き裂かれる物語だ。イギリスの裕福な家庭に育ったブライオニーは、使用人の息子ロビーに好意を持っていた。だが、彼が姉セシリアと親密にしている様子を見て、屋敷内で起きた事件の犯人として彼を名指しする。 原作はイアン・マキューアンの小説『贖罪』。それまで描かれてきた出来事の真相が語られるラストは衝撃的だ。
「プラダを着た悪魔」のア ン・ハサウェイが演技派としての真価を発揮して見せたのが「レイチェルの結婚」。姉の結婚式を2日後に控え、麻薬更生施設から一時退院してきた妹のキム。家族は彼女をあたたかく迎えるが、やがて彼らの抱えている過去の傷が少しずつ明らかになってくる。 この家族に本当の癒しは訪れるのだろうか。
デンマーク映画「ある愛の風景」をリメイクした「マイ・ ブラザー」は、家族から愛され尊敬されていた兄がアフガン戦争から別人のようになって戻ってくる物語。いったい戦場で何があったのか。戦場で受けた精神的な傷が原因で心を蝕まれてゆく兄を、なすすべもなく見守るしかない家族の痛ましさ……。
どれも家族が抱える心の痛みを描いた映画だが、ここから見えてくるのは、これまでハリウッド映画で礼賛されてきた世俗的ヒューマニズムの限界だ。映画に登場した家族たちは、人間の理性や知性によっていずれ癒されるだろうか。それは断固としてNOだ。では、彼らは信仰によって救われる可能性があるだろうか。それも映画を観る限りではNOだ。これらの映画が信仰を否定しているわけではない。しかし、神のいない世俗的ヒューマニズムに慣れっこになった人々は、もはや自分の目の前に神が手を差し出していることにすら気づくことができなくなっている。自らの犯した罪に恐れおののきながら、そんな自分を自分で救うことができないまま苦しみのたうち回る人々。それがハリウッド映画の描く現代人の過酷で痛々しい現実でもある。
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