【映画評】『誰も知らない基地のこと』 オキナワの「普遍性」と 「特殊性」を浮き彫りに 2010年1月10日

 当事者には気付きにくい問題がある。身内だからこそ、近過ぎて見えないという側面もある。

 世界各国に点在する米軍基地の実態を、沖縄でも「本土」でも、アメリカでもない、イタリアの監督が映画にしたことの意義は大きい。そうした客観的な視座からカメラがとらえたのは、沖縄における基地問題の「普遍性」と「特殊性」である。

「普遍性」とは、基地問題が決して沖縄だけのものではないという点。監督が映画を撮るきっかけとなったイタリア北部ビチェンツァでの反対運動と、それを黙殺して強行された基地拡張、住民を追い出して建設されたインド洋のディエゴ・ガルシア島。そこにあるのは、「世界警察」を標榜するアメリカが、地元住民の意思を無視して、戦略的に基地を配備してきたという共通の構造。「米軍基地はがん細胞のようなもの」多くの専門家と共に、2009年に亡くなったベトナム退役軍人アレン・ネルソンさんの貴重な証言も記録されている。冷戦後も増殖を続けた米軍基地は、世界38カ国で700を超える。

 一方、「特殊性」とは、戦後「銃剣とブルドーザー」で土地を略取されたという沖縄が持つ固有の歴史。1972年の返還から40年を経た今も、在日米軍施設の74%が集中し、約2万6千人の兵士が居座るオキナワ。暴行事件、爆音、墜落事故普天間、辺野古、高江で、行き場のない怒りをたぎらせながら、姿の見えない敵にあらがい続ける住民。もはや常態化してしまった惨状の異常性が際立つ。

 戦争に備えるために基地があるのではなく、基地を増やすために戦争をするという「軍産複合体」の利権構造も、視覚的、論理的に理解できるよう構成されており、教材としての価値も高い。国内のドキュメンタリー映画にありがちな、撮影、編集、音響の素人っぽさ、無駄な長さ、低予算による粗雑さがないのもいい。
 最終盤、基地を案内してきた広報担当の米兵が真顔で言ってのける。「我々がここにいるのは、子どもたちが学校に行けて、誰もが安心して眠れるようにするため。……他に質問は?」

 震災後、被災地で助けの手を差し伸べながら、多額の「思いやり」予算で駐留費を賄い、相変わらず日米同盟の強化を喧伝する国の軍隊を、果たして真の「トモダチ」と呼べるのか?

 改めて邦題に立ち戻る。本作が描いたのは「誰も知らない基地のこと」であると同時に、「知らないふりをしている」、あるいは「知ろうとしない」私たちの罪深さでもある。

 

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【Ministry】 特集「もっと『ふしぎな』キリスト教」/教界なう 「あの日」から1年。 13号(2012年3月)

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