【映画評】『デッドマン・ウォーキング』/『グリーンマイル』/『フォレスト・ガンプ 一期一会』 希望を失いかけた若者といっしょに見たい3本
「デッドマン・ウォーキング」死刑制度を深く問いかける映画であるが、聖職者の生き方についても考えさせられる。無罪を主張する死刑囚のマシューを助けようと尼僧ヘレンが関わっていくという展開だが、現代の若者と交わす言葉を見出せない牧師の姿とも重ね合わせることもできよう。
初めは「聖書にこう書いてある」としか語れず、頑なな心を前に言葉を届かせられぬもどかしさを感じても、諦めずに愛をもって関わり続ければ、やがて信頼を勝ち得るだろう。死刑を目前にして罪を告白する時が来るが、それに立ち合えるのは、聖職者にとって最大の特権である。それは、人間が神の子としての尊厳を取り戻した瞬間であり、人間の最も美しい姿である。
「グリーンマイル」同じく、死刑囚のジョン・コーフィーは、見た目は大男だが凶暴性は見当たらず、中身はむしろ草食系男子。生き方が不器用で、割を食ったロストジェネレーション世代の若者のようにも見えてくる。そんな彼が刑務所内で次々と不思議な奇跡を行い始める。それは、この世に満ちた痛みや死、絶望を背負って贖うキリストを想起させる。
天から来たと言われる彼が、なぜ死刑にされなければならなかったのか。その死は食い止められないものなのか。やがてコーフィーが自分の一部を授けた看守とネズミに起こった奇跡とは。
「デッドマン・ウォーキング」にも言えることだが、ただ死刑存廃を問う映画といった狭いテーマではなく、本当の意味で生きるとは、罪とは何かを問い、希望を失った若者を悔い改めへと導くための格好の題材となるだろう。
「フォレスト・ガンプ 一期一会」知能指数が低いというハンディキャップを負う少年フォレストが、自らのタラントを活かすとともに、数々の偶然にも恵まれて幸福な人生を歩むという物語。「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで中身は分からない」というメッセージは、不遇をかこつ人々にとって希望を与えるのではないか。
斜陽の時代を生きる現代日本の若者たちにとって、文句を言いたくなることも多かろう。失われた時代に生まれたこと自体がハンディキャップとも言えよう。しかし、人生は決まっていない。ふて腐れず、真っ直ぐに生きようとするならば、思わぬ幸せが舞い込んでくるのだ。そのような人生に導くのは、吹きまわる風のような「偶然」だろうか。この映画の冒頭に、空を舞う羽根の映像が出てくるが、その意味するところがやがて分かる。偶然と思われることの中に神の導きがあることを知らされる。
(河村 冴)
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