「苦しめるものへの怒り必要」 川端純四郎氏 被災地から発言 2011年7月16日
宮城県仙台市で被災し、『福音と世界』(新教出版社)5月号に「『三・一一』以後——東日本大震災十日目の報告」と題して寄稿した川端純四郎氏(元東北学院大学助教授)が6月24日、キリスト教出版販売協会の出版部会例会に招かれ、「『三・一一』以後の教会と私たち」と題して講演した。
これまで、専門である賛美歌以外でキリスト教についての発言は控えてきたという川端氏だが、教会員を探して600人余の遺体を見て回ったという今回の体験をふまえ、自身が改めて問われたことを一信徒の立場から率直に語った。
1775年のリスボン大地震から21世紀に至るまで、天災に対する神学者の認識がどのような変遷をたどったか概観した上で、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』の一節を紹介。すべてのことを説明する「神という作業仮説」(説明原理としての神)を放棄し、「神の前で、神と共に、神なしに生きる」道しかないのではないか、と提起した。
「なぜ地震が起きたのか、なぜ多くの人々が死なねばならなかったのか。説明はつかないが、そこで共に『おろおろ歩く』(宮沢賢治)イエスがおられる限り、わたしたちも共に生きるほかない」「『摂理』や『みわざ』と都合よく説明できてしまうものは、『答えがほしい』という人間が納得するために作り上げた『願望の産物』でしかない」
さらに、被災地で出会った何百人かの学生ボランティアの中で、「選挙には必ず行く」と言ったのはわずか十数人しかいなかったことを指摘。
「ボランティアは本当に涙が出るぐらいありがたいが、ただ同情するだけで問題は解決しない。現地で苦しむ人と共に苦しんでくださるなら、苦しめているものへの怒りが伴わなければ」と訴えた。