“宗教内部の対話が必要” 小原克博氏「対話」めぐるシンポで指摘 2011年8月6日
日本宗教ネットワーク懇談会(座長=本山一博・玉光神社権宮司)は、自由な宗教間対話の促進と個人参加型ネットワーク構築を目指し、シリーズ「いま、なぜ宗教間対話なのか」と題する第1回シンポジウム「壁は乗りこえられるのか?——対話の現場から」を7月9日、慶應義塾大学(東京都港区)で開催した。互いの信仰に深く踏み込んだ対話を行うことは困難とされてきた宗教間対話。これまで各方面で行われてきた宗教間対話での実践を振り返り、また、いまも活動中の宗教間対話の現場を報告し合うことを通じ、その重要性と可能性、限界性に迫った。
同志社大学教授の小原克博氏(同大一神教学際研究センター長)が「現代世界と宗教間対話」とテーマに基調報告。
現代世界で取り組まなければならない課題の一つに「宗教と暴力」の問題がある。欧州や米国では、ユダヤ教とキリスト教、キリスト教とイスラームが対話しなければならない歴史的必然性が明確な形で存在することを、ホロコーストや9・11事件などを例証に解説した。
それに対し国内で催されている宗教間対話は、「必ず平和が呼びかけられるが、弛緩した平和を唱えるサロン的な対話」と批判。声高にスローガンが述べられてはいるが実践が伴っていない、と強調した。
また、イスラームなどについて過激な宗教と一度見なせば、そこにいる宗教者たちを切り捨ててしまう傾向も日本の宗教者の一部にはあると指摘。「自分たちが平和を手中におさめ、暴力を外部化。自分たちの中にある暴力性には気がついていない。それは、自分たちを安全圏におき、ややこしい人たちに暴力を押し付けていることと同じ。結果、対話の場で壁をつくり、高くしている」
小原氏は、世俗社会からの宗教界に対する不信感、ネガティブなイメージを認識することの必要性を訴え、宗教間対話も大事だが、同じように宗教内部の対話も重要であると主張。そしてこれが最も難解な問題でもあり、「リベラルでも保守的なところでも、どんな教団でもその内部の対話が難しい。宗教内部の対話で、耐えられる力がなければ、本当の意味では、本気で他宗教との対話はできない。宗教間対話と宗教内部の対話は表裏一体の関係で進むべき」とした。宗教内部の対話の重要性は、中絶や同性愛といった問題で、米聖公会では脱会するところもある事実からも確認できる。
さらに日常的に取り組んでいる事例として、一神教学際研究センターと、京都宗教系大学院連合での活動を話した。一神教学際研究センターで、タリバーン戦士や過激なイスラム主義者などを招いた宗教間対話を紹介。
「対話の対象とされてこなかった人、対話を拒否しているような人との対話をどうにかできないか、との趣旨で行っている。彼らを悪魔化しているだけではいつまでたっても問題は解決しない」
続いて行われた「宗教間対話の現実」と題する現場報告では、峯岸正典(宗教間対話研究所所長、曹洞宗長楽寺住職)、三輪隆裕(IARF評議員、日吉神社宮司)、鈴木孝太郎(練馬宗教者懇話会、立正佼成会国際伝道本部長)の3氏が発言。
ラウンドテーブル「壁は乗りこえられるのか?」では、樫尾直樹氏(慶応大准教授)の司会で、すでに発表した4氏に、高柳正裕(元真宗大谷派教学研究所所員、学仏道場回光舎舎主)、本山一博(玉光神社権宮司)の両氏が加わる形で展開。
小原氏の「日本の宗教間対話はサロン的ではないか?」との主張に対する意見が相次いだ。「宗教者が言葉を投げかけるだけで終わっている」という見方や、「サロン的にならざるを得ない状況もある」とする分析も見られた。
シリーズ第1回目のシンポジウムは、約150人の参加者を集めた。企画者の樫尾氏は、「宗教間対話といっても一般的には認知されていない。特定宗教ではなく、宗教そのものを布教していくという思い」と話している。今後も同シリーズを中心に、宗教間対話のワークショップやシンポジウムを行っていく予定。
※日本宗教ネットワーク懇談会=従来の宗教、組織、人にとらわれない、宗教にかかわる個人が自由に参加できる宗教対話・交流のあり方や、緩やかなつながりについて意見交換し、宗教による各種の活動を幅広く触発していく場として、2001年10月、結成50周年を迎えた新宗連(財団法人新日本宗教団体連合会)が提案した構想。