〝現実認める時、目が開かれる〟 上智大学聖書講座で雨宮慧氏 2011年12月3日
上智大学キリスト教文化研究所(佐久間勤所長)はカトリック東京大司教区との共催で「終末を生きる」と題する聖書講座を11月19、20日、同大学(東京都千代田区)で開催した。延べ260人が参加した。
19日には、雨宮慧氏(上智大学教授)が、「預言者が語る終わりの日――第一イザヤの場合」と題して講義=写真。「イザヤの回顧録」と呼ばれるイザヤ書6章1節~9章6節を取り上げた。
雨宮氏は6章の「頑迷預言」と呼ばれる言葉に注目し、イスラエルの民が無意識のうちに神の教えを人間の戒めにすり替え、偽善に陥っているために、イザヤは審判を語らざるを得ないのだと解説した。
一方で、イザヤが裁きだけでなく同時に救いについて語っている箇所として、7章3~14節に言及。アハズがしるしを断ったのに対して、イザヤは「インマヌエル預言」をしるしとして与えており、「イザヤの言葉には裁きと希望とが同居している。人間の計算とか理解を超えた神の可能性を認めることが、裁きは必定だが、希望を語らせている」と指摘した。
最後に、「神の教えを人間の教えにすり替えてしまって、自分は神の教えを守っていると思い込もうとしている人がいる。こういう人間観をもし認めることになると、確かにわれわれは立ち返らない限り裁きの下に置かれるだろう」と述べ、裁きと救いの同居を語るイザヤが、一方では人間のいい加減さを意識しつつ、他方では神が最終的に救いを与えようとしていることも考えていると主張。
「われわれの現実をよく見て、認めるかどうかが分かれ道になる。現実を認める時に目が開かれる」と述べ、6章10節の「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」の言葉は、人間が自ら行っていることであり、神がそれを追認しているに過ぎず、「われわれが気付かない限りどうにもならない」と結んだ。
同講座では他に、光延一郎氏(上智大学教授)が「現代人の終末不安へのキリスト教終末論の答え」、小林稔氏(同)が「新約諸文書の終末倫理――多様な終末観と倫理」、ホアン・アイダル氏(同大学准教授)が「ユダヤ教におけるメシア理念の理解」、川村信三氏(同大学教授)が「キリシタン史上にあらわれた『魂の不滅』論とNovissimus(四終=死・終末・天国・地獄)についての民衆の理解」と題して講義した。