君が代強制反対キリスト者の集い 2012年8月4日
「キリスト者として君が代・日の丸を考える」と題して、「君が代強制反対キリスト者の集い」が7月13日、早稲田奉仕園スコットホール(東京都新宿区)で開催された。日本キリスト改革派西部中会「世と教会に関する」委員会、日本長老教会社会委員会、日本同盟基督教団「教会と国家」委員会、日本ホーリネス教団福音による和解委員会の共催。約80人が参加した。
昨年10月に大阪で開催された集会の東京版として行われたもので、上中栄氏(日本ホーリネス教団鵠沼キリスト教会牧師)の司会のもと、パネリストとして、山口陽一(東京基督教大学)、山崎龍一(キリスト者学生会総主事)、岡田明(東京都立高等学校教諭、日の丸君が代予防訴訟原告)の3氏が発言した。
法改正で国のための教育へ 山口陽一氏
「人を生かす国と教育のために」と題して講演した山口氏は、「君が代強制は、学校と教員だけの問題ではなく日本社会全体の問題」と前置きし、内村鑑三不敬事件に触れて、儀礼を強制する教育の愚かさを指摘。「キリスト教は立憲君主国とは共存できるが、天皇とそのシンボルに対して礼拝を強制する国とは衝突する」と述べた。
また、立憲君主国のあるべき理想のために闘った柏木義円の臣民教育批判の論理を紹介し、「柏木は『人は国家よりも大なる』という思想の出発点をどこまでも崩さない。文明や国家の発展が、人や思想に優先されることをあくまでも拒み、かつそこで弾圧される人や思想に寄り添う立場を取り続けた」と解説。内村の精神を継承した南原繁らによって生み出された教育基本法について、「(2006年の)改正により教育行政による不当な支配に根拠を与え、人のための教育が国のための教育になろうとしている」と述べ、「良心により日の丸・君が代の強制に反対する教師たちは、この国とその教育のために公務員として本来の働きを遂行している」と主張した。
(左から)上中、山口、岡田、山崎の各氏
教会の天皇判断があいまい 山崎龍一氏
山崎氏は、「『高きところ』で、主に従うために――偶像礼拝が『罪』ではなく、『むずかしい問題』になってしまう瞬間を越えて」と題して講演。「君が代」は天皇への賛美歌であり、偶像礼拝にとどまらず、天皇の支配する世の中が永遠に続くことを願うものであるとし、「教会はそれを『罪です』と言わずに、『むずかしい問題』だと言い、『信徒一人ひとりが考えたらよい』と、教会としての判断を曖昧にしている」と主張。
また、「この問題に関して『いざとなったら戦う』という人もいるが、いつになったら『いざ』が来るのか。『日の丸・君が代』でキリスト者教師が苦しみ、訴訟を起こし、職をかけて戦っているにもかかわらず、『まだ今ではない』と言っている」と批判。戦時下に礼拝で「君が代」を歌い、宮城遥拝をし、信仰告白を変更してきた教会の歴史を現在の青年たちは知らないと述べ、「いつの間にか『君が代・日の丸』『天皇制』に関して語ることが宣教の妨げになるという誤った宣教論から歴史が封印され、悔い改める機会が失われ、歴史に神の主権を見出し終末に向かう歴史観を構築できなくなっているのではないか」として、対話の必要性を強調した。
「儀礼的動作」神学的批判を 岡田明氏
岡田氏は、都立高校教師の立場から、「『日の丸』『君が代』関係裁判の動向と現在の学校の状況」と題して発言。「予防訴訟」や「ピアノ裁判」など、「日の丸」「君が代」関係のこれまでの裁判を振り返った上で、「この問題に関心を持って取り組んでいる人は少ない」とし、「教会として、教派として、日本のキリスト教界として声を上げてほしい。何らかのアクションを起こしてほしい」と訴えた。
現在の学校は、経営マネジメントの発想で、成果、業績、効率を追求しているとし、「校長ですら期限付き採用。教員や生徒を人格として考えるということはない」と主張。組織化された学校では、校長、都教委に服従しなければ給与が上がらないと述べ、「若い人たちは非常に従順な状況。このような問題に関わろうという気持ちも知識も意欲もない」と、危機感をあらわにした。
最後に「この問題は、ピンチでもあるがチャンスでもある。自分の信仰を祈り求めて鍛えられるし、世の中に証しとなっていく」と述べた岡田氏。2011年5~6月の最高裁第1、第2、第3小法廷による「日の丸・君が代」裁判判決で、国歌の起立斉唱が「慣例上の儀礼的な動作」とされたことについて、神学的な批判をするよう牧師たちに求めた。