花子とアンとキリスト教 ゆかりの教文館で「村岡花子の生涯」展示 2014年6月28日
名作『赤毛のアン』を日本にもたらした翻訳家であり児童文学者の村岡花子(1893~1968)。現在放映中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』の影響もあり、いま改めて脚光を浴び始めた。書店での関連本フェアをはじめ、各地の百貨店でも展覧会が行われている。花子も働いていた東京・銀座の教文館ウェンライトホールでは「村岡花子 出会いとはじまりの教文館」が開催中だ。同展では、教文館時代の仕事や出会いを中心に、その生涯を紹介している。来場者の大半は女性だが、中高年男性の姿も見られ、人気の高さをうかがわせる。
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明治、大正、昭和と激動の時代を疾駆し、波瀾に満ちた花子の一生。彼女のバックボーンは、東洋英和女学校での10年間で形成された。富裕層の令嬢が多く学ぶミッションスクールに給費生として編入学。カナダ人婦人宣教師たちから受けた徹底的な英語教育、佐々木信綱の門下で始めた和歌や古典文学の勉強。そしてキリスト教主義に根差した寄宿舎生活で信仰も育まれた。
花子と教文館とのつながりは、戦前に彼女が日本基督教興文協会(のちに関東大震災で焼失し、教文館に合併)で処女作『爐邉』を出版したことに端を発する。将来の伴侶となる村岡儆三(賀川豊彦の妻・ハルのいとこ)とのめぐりあい、『赤毛のアン』の原著『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』(“Anne of GreenGables”)を手渡された宣教師ミス・ショーとの出会いの場もここだ。
「村岡花子 出会いとはじまりの教文館」展(7月14日まで)では、東洋英和女学校時代の出会い、柳原白蓮や片山廣子とのかかわり、夫の儆三と交わした情熱的なラブレター、現存しているのは1冊のみという『爐邉』など、貴重な資料が公開されている。灯火管制のもとで花子が訳し続けた『赤毛のアン』自筆の原稿も見どころの一つだ。
現在放映されている「花子とアン」は、花子の孫にあたる村岡恵理氏の『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を原案とする。同書は、L・M・モンゴメリ原作『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』が出版から100年を迎えた2008年に上梓された。同氏に今回のドラマ化などについて聞いた。
――祖母・村岡花子についてご執筆された伝記が原案となってドラマ化されたことに対してのご感想をお願いします。
連続テレビ小説でのドラマ化は、思いがけないことでした。村岡花子の生涯について本を出させていただいたことも光栄でしたが、テレビによってさらに多くの方に広がるのは嬉しいことです。ただドラマですので、フィクションの部分もかなり多く、生い立ちや、家族構成の設定で、誤解が生じる部分もありますが、展覧会などで本当の村岡花子を知っていただけたらと願っております。
――読者や視聴者の方、特にキリスト教界からの反応は?
いろいろな反応がありまして、ドラマを鵜呑みにする方はいないと思うのですが、「本当に貧しくて大変だったんですね」とか「お酒がお好きだったんですか」と言われると苦笑してしまうことはもちろんあります。多くの方は、ドラマを楽しく観ています、と声をかけてくださいます。
キリスト教界からの反応ですが、たとえば、讃美歌の7番と277番は村岡花子の訳であると教えていただきました。7番は子どもの頃から何度歌ったことかわからない作品で、祖母が訳したことを知り、また嬉しく思います。
特にキリスト教的な部分はドラマではほとんど排除されています。例えばミッションスクールでの礼拝シーンはあまりありませんでしたし、教師時代も、本当は山梨英和女学校の先生をしていたのですが、これが尋常小学校になっています。本当は、キリスト教のヒューマニズムなしには村岡花子はありえないわけです。それがなくなったら空っぽになってしまうぐらい、キリスト教のヒューマニズムに満ちた人でした。それを宗教色ではない形ででも表現していただきたいと思います。
――いま改めて、祖母であり、文学者としての村岡花子をどのように受け止めていますか。
私が11カ月のときに亡くなっておりますので、私には祖母と触れ合った記憶は残念ながらありません。ただ、絶筆となった随筆に私のことが書かれていて、それが私自身に愛情の余韻のようなものをのこしています。私を祖母の足跡を追いたい、というものに駆り立てていきました。最後に愛情をのこしてくれたということは、私自身の生きていく上でのいろいろな原動力になりました。家族にとって、ものすごく愛情をのこしてくれた。だから私たちも深い感謝を持っております。他人から見たら、二束三文の本や原稿であったとしても、祖母ののこしてきたものを捨てられませんでした。
文学者としても同じことで、祖母の仕事はすべて愛情から始まっていると思います。たとえば何か娘に読ませたいと思う愛情を通して、またそれを若い世代や子どもたちのために世間に送り出していくと言いましょうか。自分の文学者としての地位を築いていくだけではなくて、若い人たちが希望を与えられるように、何かあったときに、それを乗り越えられるような心の強さを育むように――。そういう愛情から発した仕事であったと思います。
あの時代は、難しいことを難しく言うのが文化人、教養のある人、という考え方であったと思います。祖母は全く違って、いかにやさしく人の心に伝えるかということを考えていた人でした。時代を越えて今また祖母の言葉が、美しさやあたたかさをもって誰かの心に響いていくのであれば本当に嬉しいです。
【村岡花子】主な年表
1893年 山梨県甲府市で葉茶屋を営む安中逸平、てつの間に8人きょうだいの長女として生まれ る。本名はな。2歳で受洗。
1898年 一家で上京。翌年、品川の城南尋常小学校に入学。
1903年 東洋英和女学校に編入学。
1909年 前年に編入学してきた柳原燁子(後に歌人、白蓮)に導かれ、歌人、佐佐木綱に師事。信綱の紹介で歌人の片山廣子と出会い、生涯にわたる友情を結ぶ。英米文学を原書で読みふける日々のなか、翻訳家への夢を抱く。
1913年 東洋英和女学校高等科卒業。
1914年 山梨英和女学校に教師として赴任。
1917年 『爐邉』を処女出版。
1919年 教師を辞して、日本基督教興文協会(後に教文館と合併)で、婦人、子供向けの本の翻訳と編集に携わる。10月、福音印刷株式会社の支社長でキリスト者の村岡儆三と結婚。
1920年 長男誕生。
1923年 関東大震災の影響で、福音印刷が倒産。多額の負債を抱える。
1926年 教文館で翻訳と編集を手がける。出版社兼印刷所、青蘭社を夫と共に自宅に設立。長男が疫痢で死去。
1927年 マーク・トゥエイン作『王子と乞食』刊行。
1930年 婦選獲得同盟主催の全日本婦選大会に参加。婦人参政権獲得運動に力を入れる 。
1932年 放送局JOAKのラジオ番組の『子供の新聞』コーナーを担当。「ラジオのおばさん」として人気を博す。
1939年 教文館の同僚、宣教師ミス・ショーが世界情勢の緊迫で帰国する。友情の記念にモンゴメリ作『アン・オブ・グリン・ゲイブルス(Anne of Green Gables) 』を贈られ、翻訳に着手。
1941年 太平洋戦争が開戦。
1945年 第二次世界大戦終結。『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を訳了。
1952年 『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を邦題『赤毛のアン』として三笠書房より刊行。以後、7年にわたって10冊のアン・シリーズを翻訳出版する。日本初の家庭図書館「道雄文庫ライブラリー」を自宅に開設する。
1960年 児童文学に対する貢献により藍綬褒章を受章。
1963年 村岡儆三死去。
1968年 脳血栓により死去。
(『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を参照)。
写真:教文館提供