【映画評】 『サウルの息子』 極限状況を生き抜く信仰と祈り 2015年5月15日
第二次大戦末期のアウシュヴィッツ強制収容所には、遺体処理に従事する囚人の特殊部隊ゾンダーコマンドが存在した。そこに所属するユダヤ人の男サウルは、収容所内で偶然見つけた息子の遺体をユダヤ式に弔うことへ異様なまでの執念を発揮する。
その日は奇しくも囚人らによる脱走計画の決行日にあたり、収容所内は次第に混迷を深めていく。サウルは周囲の混乱をよそに、息子の遺体を確保するよう医者へ依頼し、ラビ(ユダヤ教聖職者)の囚人を見つけて葬儀の執行を頼み込むなど、ひたすら葬送実現だけに邁進する。
本作はそのほぼ全編において、サウルの視界のみを映し出す。焦点が合うのはスクリーンの中央のみ。フレームの外から流れ込む阿鼻叫喚にサウルが終始無反応でいることが、観る者の想像力をかえって刺激する。
大戦末期のアウシュヴィッツでは人々を〝効率良く処刑する〟ためガス室が準備され、遺体は焼却炉などで処分された。一方ユダヤ教では教義により、死者が復活できないとして火葬が禁じられている。
被収容体験をもつ精神科医ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』でこう述懐した。「人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」
圧倒的な暴力を前に、個としての人間はあまりに非力だ。しかし非力であっても、人としての尊厳を保つことが不可能ではないこと、むしろそこにこそ人生の本質が宿ることを、極限状況を生き抜いた先人たちは教えてくれる。
サウルが脱走計画に乗じるでもなく、ユダヤ式葬送実現へ向けて非合理的ともいえる貫徹ぶりを見せたのはなぜなのか。それは、絶望的な状況下で押し殺してきた人間性が、息子の遺体に触れることで蘇ったからだろう。
身の安全にも優越する価値の存在。その価値を証すものとしての信仰が、経済合理性によりあらゆるものが単元化されつつあるかに見える現代社会において、なお一層の今日的意義を抱え持つ理由の一端はここにある。凄惨と喧騒に満ちた強制収容所を舞台としながら、黙想にも似た静けさを湛える物語。この意味で本作は類まれな、そして鮮烈な祈りの映画だと言えよう。(ライター 藤本徹)
公式サイト:http://www.finefilms.co.jp/saul/
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