「罪」考えずに「救い」考えられず 日本福音主義神学会東部部会に鈴木浩氏 2015年7月4日
「今、再び罪について考える」をテーマに、鈴木浩氏(ルーテル学院大学教授、同大学付属ルター研究所所長=写真)が6月15日、お茶の水クリスチャンセンター(東京都千代田区)で講演した。日本福音主義神学会東部部会(大坂太郎理事長)主催の春季研究会での講演。同会の会員や神学生ら70人が出席した。
ルーテル世界連盟(LWF)とローマ・カトリック教会の間に1967年に設けられた、神学対話のための国際委員会「一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会」の委員である鈴木氏。同委員会の最近の成果を紹介し、両者の距離が縮まった大きな要因として第二バチカン公会議を挙げた。
「カトリック教会とルーテル教会がここまで相互理解を深めたのは、100年前には考えられないことだった」とし、「世界中の宣教の最大の阻害は、教会がいくつもの教派に分裂しているという事実。教会が目に見える一致に向かって大きな努力をこれからも図っていかなければいけない」と強調した。
同氏は、アウグスティヌスが取り上げた最大のテーマである「原罪論」が、教会でも神学校でも取り上げられなくなっていると指摘し、「この奇妙な沈黙は何か」と疑問を提起。義認論の前提はアウグスティヌス的人間論=原罪論の強固な再主張だとする神学者J・ペリカンの指摘に注目し、「義認論の力は罪認識の深さに正確に比例する。罪認識が深ければ深いほど義認論のインパクトは強くなる」と述べた。
その上で、「教理的前提(原罪論)を失った義認論が、今の力のない義認論だ」と主張。「原罪論が持ち出せない現状では、嬰児洗礼の神学的正当化はできない」とも述べた。鈴木氏が93年の論文で呼び掛けた「無視され攻撃されている原罪論を守れ」という声に応える牧師はいまだに1人もいないと話し、「罪を考えずして救いは考えられない」と訴えた。
最後に、創世記3章のアダムとエバの記述に「罪」という言葉が出てこないことに着目し、「『罪』という言葉がまがまがしく聞こえるならば、『罪』という言葉を使わないで『罪』について語る可能性がある」と指摘した。