「赦し」と「謝罪」から「和解」へ 清泉女子大で「報復」テーマにシンポ 2015年8月15日
「報復」と「(正義に基づく)応報」は同じか――応報的正義とキリスト教的隣人愛との関係を考えることを課題に、シンポジウム「報復の論理とキリスト教ヒューマニズム」が7月11日、清泉女子大学(東京都品川区)で開催された。同大学のキリスト教ヒューマニズム研究会と文化史学会が主催した。
鈴木崇夫氏(清泉女子大学文学部文化史学科教授)の司会のもと、加賀谷幸(清泉女子大学文学部文化史学科3年次生)、パトリック・グリューネベルク(明治大学国際日本学部助教)、石川求(首都大学東京都市教養学部人文・社会系国際文化コース教授)の3氏が発題した=写真。
加賀谷氏は、「報復の論理に関する一考察」と題して、キリスト教、ユダヤ教、仏教の「報復」の考え方の違いを比較。「報復」と「応報」の違いを分析し、カントの思想に照らして報復行為について考察した。
グリューネベルク氏は、「赦しによる報復」と題して、赦しと死刑制度について考察した。死刑制度が廃止されているドイツを例に、「報復としての死刑は、被害者と被告にもたらすものは少ない」とし、「赦し」こそが意味のある報復だと強調。「赦すという決断を意識的に行うことで、力なき犠牲者は、再び力を得、そこから自立していくことができる」と述べた。
「法の手前にある生と死」と題して発題した石川氏は、マタイ5・24~25を引用。原告と被告という対立を設ける前の人間は、誰もが共に歩む同伴者であって、仲直りも容易なはずであり、率先して謝ることが和解への第一歩だと語った。
また、敗戦国日本の謝罪が周辺国から真摯に謝ったと受け取られないのは、日本に問題解決への能動性が欠如しているからだとし、過去の過ちを認めず、検証しようとさえしないのは、天皇という無謬の存在がいるからだと主張。「日本に天皇制が続く限り、死刑は廃止されないだろう」とも述べ、「天皇が法を超えた存在であるなら、大逆罪という最高の罪もまさしく法を超えて暗黙のうちに存在し続けるから」と主張した。