【空想神学読本】 「スプリガン」にみる多神教的世界観と祈り Ministry 2015年秋・第27号
1998年、川崎博嗣(監督)、大友克洋(監修)、江口寿史(キャラクターデザイン)という豪華布陣で映画化もされた漫画家・皆川亮二の代表作。SFアクションの中に描かれる祈りとは?
祈られるのも嫌だと言って教会を離れた友人Aのために、今日も祈っている。祈りが、時間の無駄と思われることならしばしばあるかもしれないが、嫌悪感すら抱かれるとは辛いものがある。それでも、Aの言いたいことが分かるような気もするのだ。普段、信徒の集まりにいても、たった今祈ろうと声をかけるのは難しいことだから。
漫画「スプリガン」の主人公、御神苗優(おみなえゆう)はシスター・ケイトの祈り癖に辟易していた。死と隣り合わせの状況で非戦闘員であるケイトを護送しなければならないにもかかわらず、当のケイトに引っ切りなしに立ち止まられては務まる仕事も務まらない。優は「祈る前に自分が何をすればいいか考えろ」とケイトに言ってはみるものの、あまりにも異なる生き方をしている2人の会話はちぐはぐである。
全般的に多神教的世界観の中で多くの神秘や超常現象、そして高い戦闘能力を持つ超人に出会っていく「スプリガン」のストーリーにおいて、「混乱の塔」の回は妙に際立って思想的な危なっかしさを抱えている。たとえば、ケイトが優の強さに心打たれて「あなたはどんな神を信じているのか」と質問するあたり、おおよそ修道女の発想が描写されているとは思えない。また、優はバグダッドでユダヤ教徒である敵を倒すことになるのだが、この敵は最終的にアウシュビッツに言及してケイトに罵声を浴びせる。事件解決後、後味の悪さを抱えた優は、イスラム教徒とキリスト教徒の戦争勃発のニュースをテレビで見て言葉を失う。
要するに三大宗教が多神教世界にあって相対化されていく流れである。「マスターキートン」然り、「ジブリ」然り、皆さんそんなにイスラエルの神がお嫌いですか? 修道女さえ、ここでは優に変えられていく必要があるのだろうか? 実際、戦闘中に祈っていたケイトは、優に言われた言葉を思い出して、祈りをやめ、重要なアイテムを敵から奪おうと走り出す。確かにこれは彼女の大きな変化だろう。祈っているだけでは変わらないように見える現実を変えようとした彼女のひたむきな想いは、物語終盤、無益な銃撃戦すら止めるのだ。
しかし、祈りが聞かれる仕方は奇跡だけなのか。神の働きはもっと自由ではないのか。
ケイトは祈りを中断した。それでも、だからこそ、ケイトは祈りによって力を得たのだ。このことを誰が反論できるだろう。祈る時間があったら走って逃げたほうがいいのか。やれることを考えたほうがいいのか。否、それこそ人が心に思い計ることである。
一つひとつは小さなことかもしれない。しかし聖書には虫に噛まれて死んだ男もいる。だからもし、この話が祈りの無力さを説き、この世の局面を変えていけるのは最終的には人間の仕業しかないという結論を導き出したかったのだとしても、祈りはすでに聞かれていると言うべきである。
もしケイトの想いが、祈りをやめた刹那、あるいは両手を広げ、身を挺して停戦を訴えた時、主から離れていたのだとしても、祈りはすでに、聞かれている。いや、正直なところ「主のみ名においてお願いする」と言っているケイトが主に信頼していないとは思えないのだが、優の師匠である朧(おぼろ)のセリフが引っかかって、彼女の想いを勘ぐってしまうのだ。「ここにいるすべての兵士は、彼女の中に本物の『神の姿』をみていることでしょう」と。
ノンクリスチャンである友人Mは先日、「いつも聖書研究会で皆で祈っているその場でなら、自分も祈れるかもしれない」と話した。人はいつ祈ることを覚えるのだろうか。ただ私は、Mは「神の姿」を朧ほど冷めた目で見ているのではないと信じている。
(御堂大嗣)
【作品概要】 スプリガン
〝我々の遺産を悪しき者から守れ〟……超古代文明の何者かが現代に残したメッセージ。それを受けて、超古代文明を封印するために活動するスプリガン・御神苗優の戦いが始まる。彼は世紀末の救世主(メシア)なのか⁉
超古代、現代をはるかに上回る科学力を持つ文明が存在した。ある遺跡から発掘された金属板に刻まれた警告に従い、特殊組織「アーカム」は、彼らの遺産(オーパーツ)をあらゆる権力から守り、封印するチームを結成。アーカムのトップエージェントは、「スプリガン」と呼ばれる。
■原作 たかしげ宙
■作画 皆川亮二
■出版社 小学館
■掲載誌 週刊少年サンデー
■レーベル サンデーコミックス
■巻数 全11 巻
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