【映画評】 『十字架』 弟子たちも担いだ 「十字架」の重み 2016年2月6日

 中学2年生の藤井俊介(フジシュン)がいじめを苦に自殺し、同級生2人の名前を遺書に残した。「親友になってくれてありがとう」と書かれた真田祐と、「迷惑をおかけして、ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。幸せになってください」と書かれた中川百合。いずれも生前のフジシュンとは親しい間柄ではなく、いじめの当事者でもなかったが、その言葉により期せずして〝重荷〟を負わされる。

 息子を見殺しにした同級生を憎み続けるフジシュンの父、亡き息子の面影にすがり憔悴していく母、兄の死を受け止めきれずに苦悩する弟。それぞれが背負った「十字架」の重みと、その後の20年にわたる心の軌跡を描く。

 五十嵐監督は、「企画をプレゼンテーションした当初、いじめのような暗いテーマの映画をやりたがる会社はなかった」と打ち明ける。しかし、いじめ撲滅に取り組んだ茨城県筑西市の全面的な協力を受け、公開にこぎつけた。同市の中学校では全国的に中学生の自殺が相次いだ1996年、いじめの芽を摘みたいと生徒たち有志で発足した「君を守り隊」の活動が、今も受け継がれている。

 生徒役は地元の中学生や高校生を中心に、一般オーディションで募集。それぞれが直接、間接にいじめを体験している世代だけに、演技の端々にもさまざまな心の動きが見られたという。撮影も市内の中学校で行われ、どこにでもある中学校の日常と、そこに潜む過酷な現実が浮き彫りになった。目を背けたくなるような凄惨ないじめのシーンも、フィクションとは思えないリアルさで心に迫る。脚本には、実際に大津市で起きた事件から、教師や保護者の発言も取り入れた。

 「いじめはなくならないだろうけど、なくそうとする努力は必要」と監督が語るように、決して唯一絶対の解決策があるわけではない。犯人を特定し、その責任を追及するわけでもない。観る者がそれぞれの立場で共感し、希望を見出す映画だ。

 シンボルとしての十字架とは意味合いが異なるものの、イエスの受難とそれを目の当たりにしながら「そんな人は知らない」と見殺しにした弟子たち、彼らが背負った「十字架」の重みと復活の意味に思いを馳せる。

 

「Ministry」掲載号はこちら。

【Ministry】 特集「ボクシたちの失敗~『しくじり』を教訓に」 28号(2016年2月)

©2015「十字架」製作委員会(アイエス・フィールド ストームピクチャーズ BS フジ)

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