宗教観めぐり縦横に対論 「大人の教養学部」で安田登氏ら文化人登壇 2016年3月12日
「教養という魔物と正面から向き合う」をコンセプトに、東洋思想・日本文化の第一線で活躍する専門家を招いた講座「大人の教養学部」が東京・銀座で開かれた(株式会社伊東屋、築地食の街づくり協議会協賛)。元東京大学教授の片平秀貴氏(経済学)が代表を務める丸の内ブランドフォーラムと、同氏のゼミで学ぶ同大経済学部の現役学生が企画・運営したもので、「本物の教養」を身につける場として、試験的に三つの講座を開講。社会人、学生、主婦を対象とし、2月には「日本の宗教と価値観」と題するプログラムが4回にわたって行われた。
全4回をとおして監修を担ったのは、能楽師の安田登氏。「日本人の価値観と宗教」と題する2月10日の1回目は、クリエーターのいとうせいこう氏を招き、日本人が潜在的に持つ宗教的な価値観について語り合った。
震災後に『想像ラジオ』で新たな文学的手法を試みたいとう氏は、日本人は俯瞰的な「神の視点」で物事を捉えるよりも、主観的な一人称でものを見る傾向にあると指摘。
安田氏は、「能と論語の共通点は、面白くないのに歴史が長い。その中途半端な不安さに耐えられる力が、かつての日本人にはあった。あえて意味づけをせず、わけがわからないまま継承するというのが大事」と説いた。
生と死の境が明確な動物よりも、あいまいな植物の方が日本人の感性と相性がよく、輪廻転生の思想も容易に受容できると分析したいとう氏は、「日本列島に住む人々は、植物に憧れていたのではないか」との仮説を提示。安田氏も「松尾芭蕉は植物と一体化して歌を詠んだ。植物を対象化するようになったのは明治以降」と答えた。
いとう氏は最後に、「境界線を崩すための技術が、芸能としての能であり、文芸としての和歌やお祭りだった。果たして、そうした文化を現代日本が生み出せているのか」と問いを投げかけた。
2月17日の第2回は「日本的価値観と仏教」と題し、釈徹宗氏(浄土真宗本願寺派如来寺住職)と対談。キリスト教の「原罪」と仏教の「煩悩」、チベット仏教と日本仏教の違いなどを比較しながら、日本人の宗教観について論じた。
震災後に海外メディアからインタビューを受けたという釈氏は、「『なぜ日本人は秩序正しいのか』と聞かれた。明らかに『仏教徒だから』との答えが期待されていたが、日本が社会的フェアネスを担保しようと努力してきたから。また、『なぜ神はこのような災害を起こしたか』と聞かれ、『仏教は神の意志で世界が動くとは考えない』と答えると驚かれた。さまざまな原因と縁によって成り立つという発想が理解できないらしい」との逸話を紹介。
さらに、宗教の負の側面として、あらゆる宗教が暴力装置を内包していると指摘。
「社会とは別の価値観を持っているからこそ、一端それが発動すると止められない。生き方が近視眼的に濃縮されていくのを解きほぐし、拡散させる機能を持つのがアートや芸能。宗教者を揶揄したり、熱心な信仰をパロディにしたりできる土壌が大事。宗教の権威を笑う芸能は、成熟した文化や高い宗教性がないと成り立たない。日本の芸能研究は、そうした宗教からのアプローチが足りない」と強調した。