【映画評】 『ラサへの歩き方-祈りの2400㎞』 優しさを包み込む衣としての信仰 2016年7月23日
チベットの遊牧民がつくるバター茶は強烈だ。ヤクの乳から採られた、どろりと歯にまとわりつくほどの脂分や、岩塩由来のキツい塩味が相俟って、もし東京の店でこれを供されたら飲めたものではないだろう。しかしあまりの標高のため草木が生えず、虫も飛ばない土地が大半を占めるチベットで受けるバター茶のもてなしは格別だ。ドンモという木製の大きな撹拌器で、小柄なチベット男性が発酵した茶と乳を力づくで撹拌し、淹れた器を笑顔で差し出す。
映画『ラサへの歩き方』は、チベットの村人たちが巡礼の旅へ出る物語だ。11人の村人は四川省の辺境村から聖都ラサを経て、聖山カイラスを目指す。その道のりは2400キロに及び、幼児や妊婦、老人や怪我人を含む五体投地の旅は順風満帆とはいかない。直立し胸前で合掌する姿勢から、両手と両膝、額を地面に投げ伏して祈る動作を繰り返して進む五体投地の巡礼は、言うまでもなく極度に遅い。だがこの遅い歩みを映しだす銀幕は驚くほど豊穣だ。一行をつねに取り囲む大自然の雄大さ、現代の日本人からはあまりに遠い彼らの習俗、そして行く先々で見舞われる出来事と、遭遇する人々から受ける厚いもてなしの数々。
文化人類学的には一般に、極地や砂漠など過酷な環境に暮らす民族ほど、互助精神が強いと言われる。これを、生存目的の功利的観点のみによって理解するのは不十分だ。『ラサへの歩き方』では、しばしば「他者のために祈ること」が強調される。ここには気鋭の中国人監督による、世界の観客への目配りが感じられる。しかし若干の私見を交えて言えば、登場する村人たちは利他意識が強いのではなく、自他の境界がもともと薄い。薄いから自他の損得を計算しない。だから彼らは、人間の《本質》的に優しいのだ。
本作において信仰は、この優しさを包み込む衣として描かれる。コンクリートで舗装された道路や、開発が進むラサの街は硬質でどこか痛々しい。ところがこれら物質文明からの浸蝕を、祈りの歩みによって乗り越えていく村人たちには苦痛の色が微塵もない。それは己の今なす営みが、村で待つ親族や旅先で出会う人々の幸福と一体であることを知っているからだ。だからもしあなたが、自他を巡る関係性のほつれやひずみに疲れているなら、本作の鑑賞をお奨めしたい。『ラサへの歩き方』はきっと身も心も温めてくれるだろう。どろりとして熱い、あのバター茶のように。(ライター 藤本徹)
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