【教会の彼方】 災害直後に問われる教会の対応 神田道隆 2016年11月12日
今も不自由な避難所生活を続けている被災者がおり、倒壊した家屋のがれきが残る熊本県。――あれから半年。阪神・淡路大震災に続き、二度の震災を経験することになった神田道隆さんに、災害時の教会が留意すべきことについて改めて話を聞いた。
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1995年、神戸市灘区で阪神・淡路大震災を経験した当時はまだ中学2年生でした。街は甚大な被害を受けていましたが、学校がしばらく休みになり、不謹慎ながら純粋に「非日常」を楽しんでいた記憶があります。ただ母親を亡くして後に牧師を志した友人もいて、親も死ぬということを初めて認識しました。あれから二十余年、まさか再び大きな地震に遭遇するとは思ってもいませんでした。
武蔵ヶ丘教会は熊本市郊外の新興住宅地にあります。最初の地震があった4月14日は、神戸での経験から車での移動はできないと分かっていたので、夜通し原付バイクで教会員の自宅を訪問して回りました。益城町に住んでいた信徒は家が半壊し、車中に避難されていました。水道管が破裂していたので町中が水浸し。益城町は、すでにこの地震で壊滅していました。その日、帰宅したのは夜中の2時でしたが、寝ようとしても気持ちが高揚していて寝られませんでした。
16日未明の本震が起きた時、2階の牧師館で寝ていましたが、20分ほど猛烈な揺れが続き、あまりの恐怖で死を覚悟し、身を伏せながら親に電話したほどです。幸い、身近では人的被害が少なくて済みましたが、被災者としての苦労は阪神・淡路と変わりません。むしろ大きな地震が立て続いたことによる、精神的なダメージは熊本地震の方が大きいと思います。
教会が教団九州教区の震災対策本部となってから、目まぐるしい日々が続きました。地震後4日目には、「牧師の負担になるので電話や訪問は控えてほしい」とお断りしたにもかかわらず、1日で51件の電話と11団体による訪問があり、その対応でかなり消耗しました。
義援金を受け取るためだけに早朝から電話対応を迫られたり、こちらのニーズと異なる物資が大量に送られてきたり。とにかく寝られない日々が続いていた中で、来客の対応をしなければならない苦労はぜひ分かっていただきたいと思います。
「何を送ったらいいか」という問い合わせも殺到しましたが、最初の3日はやはり水です。カセットコンロやガスボンベも役に立ちました。お米を送る場合は「無洗米」がありがたいです。案外、子ども用品とアレルギー対応の食品などは忘れられがちです。物資を送る場合は、その日に必要とされていて、翌日には届けられる物に限り、それができない場合は義援金という形で振り込んでいただくのが最善です。
「お礼状や受領証がほしい」という申し出にも困りました。震災後、1カ月ほどは説教準備に普段の3~4倍の時間がかかるほど、集中力が散漫になってしまい、受領証を作るような事務能力も失われた状態でした。それらの求めに応えきれていないという精神的な負担も小さくありません。会計の担当役員も同様です。
武蔵ヶ丘教会では、卓球台があったので教会を「ピンポンカフェ」として開放し、昼間は地域の大人たち、夕方からは子どもたちに居場所を提供し始めました。しばらくは、教会に来たこともなかった小中学生が連日十数人集まってきました。近所の子どもと知り合う良い機会にはなりましたが、使用上のマナーや飲み物を無償で提供する負担など、課題は山積しています。本意ではありませんが、一時は教会内が貼り紙だらけになっていました。
公園やショッピングモール、体育館など、いつも遊んでいた居場所がなくなり、子どもたちが行き場を失っていることは確かです。当初は地域のために「開かれた」教会を目指したのですが、理想と現実は違います。たとえ敷居は下げても、教会が神聖な場所だと認識してもらう必要はあるでしょう。同時に、信徒や牧師が常駐できるシステムが必要だと思います。
神戸では震災後1年で自死者が増え始めました。教会員には事あるごとに、「震災後ロス」と呼ばれるようなうつ状態がいつ来てもおかしくないと注意を喚起しています。
私は28歳で母を自死で失い、震災で親を亡くした先述の友人に相談し、30歳で牧師になろうと決意しました。キリスト教を信じるようになった背景には阪神・淡路での被災体験があったのです。今回の熊本地震も、私にとって何らかの意味があったと思わなければ、とてもやりきれません。
(神田道隆=日本基督教団武蔵ヶ丘教会牧師)