【映画評】 『甘き人生』 与えられる答えでなく問い続ける姿勢 2017年7月21日

 イタリア・トリノに生まれたその少年は、9歳で母を失う。母の急死により人を愛する心を見失った少年は、長じて敏腕記者となり社会の暗部を静かに見つめる。そこには熱意も関心もなく、醒めた観察眼だけがある。本作は、巧みな情景描写により個人の物語の内に戦後イタリア史を体現させる、名匠マルコ・ベロッキオ珠玉の一篇だ。

 1969年、トリノ。少年マッシモには母の死が受け入れられず、父の思いも届かない。母の葬送に立ち会った若い神父の言葉も、少年はその上辺だけをすくい上げて都合よく解釈し、母の死から目を背ける。かつて母と観たクラシック映画から抜け出したイマジナリーフレンド(空想上の友人。子どもに特有のストレス反応)だけを心の理解者とし、目の前の現実に対し距離をとる冷徹な眼差しを育て上げる。やがて記者となったマッシモの書く文章は、しかし同じように虚ろな心を抱えた読者の胸へ深く響く。

 例えば人生に飽いたような態度を示す富豪の投資家は、「君の記事は簡潔で無駄がない。君は書く対象に本当は無関心なのだろう」と鋭く指摘した直後、警察の手入れを受け書斎で自死してしまう。例えば新聞の人生相談枠に書いた回答は彼を突如有名にするが、少しも彼を幸福にすることはない。

 1993年、サラエボ。スナイパーによる狙撃を避けて潜入した市街戦の現場で、母親の死体のそばで携帯ゲーム機に熱中する子どもを撮影する彼の心は、相変わらず冷えたままだった。しかし、帰国後パニック障害に陥ったマッシモを支える精神科医の女性との出会いが、彼を静かに変え始める。

 本作は、近年イタリアでベストセラーとなったマッシモ・グラメッリーニによる自伝的小説『Fai bei sogni(よい夢を)』を原作とする。この「よい夢を」というフレーズは、映画の中で母が眠るマッシモに語りかける最後のひと言として登場する。それは映画の終盤で、恋人となった女医が主人公にささやきかける「行かせてあげて」というフレーズとひそやかに呼応する。

 幸福の絶頂を描く冒頭の幼い少年と若い母とのおどけた踊りは、中年となった主人公と女医との即興のダンスとして蘇る。映画の終盤まで伏される母親の最後の行動が、垂直落下する物や人の映像によって幾重にも暗示される。『甘き人生』においては、際立つ構成の妙が抑制されたシーン展開を支えている。

 色調の抑えられた映像も本作の特徴の一つだが、中でも教壇に立つ老神父エットーレと少年マッシモとの対峙場面の陰影は印象的だ。少年が深く傷ついていることを知った老神父は、反実仮想の「もしも」を繰り返す日常でなく、「にもかかわらず」現実に立ち向かうことの大切さを説く。その教えは少年の心をすぐには捉えない。だが母の死後に出会う女性たち、友人の母や叔母、新たにやって来た家政婦や父の若い愛人といった面々の内に母の面影を探す主人公の渇いた眼差しが、地獄のようなサラエボの戦火をくぐり抜けた後、彼を受け入れる恋人の瞳と重なる時、老神父の言葉が主人公の背中を優しく押し出す。

 老神父は穏やかに諭す。宇宙の起源もこの世における死をめぐっても、与えられる答えではなく、問い続ける姿勢が大事なのだと。少年の宗教への反抗から政治転覆まで、社会的視座の中に根源的真理を埋め込む作風を磨き上げてきた今年78歳となる巨匠マルコ・ベロッキオならではの、いぶし銀の技巧が放つきらめきをそこに見る。映画の中で老神父が少年へ向かって言うように、星も人も、存在はみな光なのだ。

(ライター 藤本徹)

監督:マルコ・ベロッキオ 出演:ヴァレリオ・マスタンドレアほか

ユーロスペース、有楽町スバル座ほか全国順次公開中。

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