【追悼】 羽鳥明さんを偲ぶ「病床でも『福音を伝えたい』というスピリット」 東裕之(太平洋放送協会)
羽鳥明先生は、大衆伝道者として広く活躍し、伝道ラジオ番組「世の光」やテレビ番組「ライフ・ライン」のメッセンジャーとしても長く福音を語ってきました。
羽鳥先生はメッセージの中で、「私は16歳の時……」という〝お決まりのフレーズ〟で、自身の救いの証しをよく語りました。先生が16歳の時、──当時はクリスチャンは「ヤソ」と国賊扱いされる時代でした── 学校で恫喝されても自分がキリスト者であることを大胆に告白した同級生に出会いました。そして彼に誘われて行った教会でバーネット宣教師に出会い、そこで羽鳥少年はイエス・キリストを信じる決心をします。その時から、暗い家庭環境に育ち、自殺を考えるほどに思い詰めた一人の少年の人生が変えられたのです。
フラー神学校(米国)での学びを終えて帰国し、TEAM宣教師のアーサー・シーリー師と出会って、日本での放送伝道に導かれた先生は、以来、長年にわたり太平洋放送協会(PBA)を牽引してきました。「世の光」は、放送開始当初は「暗き世の光」というタイトルでしたが、まさに、自身が暗い人生の中で見出した希望の光、キリストを伝える番組となったのです。
羽鳥先生は力強い説教者であると同時に「祈りの人」でした。「社交辞令のように『祈ってますよ』とつい口にしてしまうことがあるが、あの羽鳥先生が『祈ってますよ』という時は、本当に祈っている」と言われていました(実際に筆者も、自分がもう解決して忘れてしまった出来事を、ずいぶん後になって「○○さん、お祈りしていたあの件はどうなりましたか?」と先生から尋ねられて、驚嘆し、恐縮したことがありました)。
体調を崩して入院中の羽鳥先生を村上宣道先生が訪ねた時、先生は「どうか日本にリバイバルを!」と泣きじゃくりながら祈ったといいます。番組の収録の前にも、先生はいつも主の前に頭を垂れて深く祈っていました。その祈りが力となって、先生はスケジュール帳が真っ黒になるほどの宣教の働きをずっとこなしてきたのではないでしょうか。現役を退いてからも、先生はその熱心な祈りをもってPBAそして放送伝道の働きを支えてくださっていました。
天に召される2週間前のこと。そのころはベッドで眠っていることが多かった先生ですが、突然、病床でメッセージを語り始めました。その時の様子をご家族が撮影した映像が、葬儀式で流されました。喜びに満ちた輝いた顔で、「私は16歳の時……」とハッキリとした口調で語っていたのです。先生は最期までキリストの救いの喜びを伝えた人でした。
羽鳥先生の、「福音を伝えたい」という、そのスピリットを原点として、私たちPBAは、これからも教会とともに宣教に励んでいこうと思います。
羽鳥 明(太平洋放送協会顧問)
はとり・あきら 1920 年、群馬県高崎市で生まれる。東京文理科大学卒業。数年間の東京女子高等師範学校教師を経て牧師となる。1951 年から57 年間にわたって、「世の光」をはじめラジオから聖書のメッセージを語り続けてきた。著書に『今日の知恵 明日の知恵』『今日の詩篇 明日の詩篇』、自叙伝『イエスはわがいのち』などがある。
写真:太平洋放送協会