【教会建築ぶらり旅】 ■形に内包された必然 藤本 徹 2017年8月11日

 今日におけるキリスト教建築とは何か、どのようなものであり得るか。この一点が、本連載の主眼となる。具体的には次回から、日本国内の教会建築を中心に扱っていく。ただし回により海外や、教会以外の建築物を扱うこともある。

 戦後の日本社会は、経済合理性を最優先に復興・発展を遂げてきたが、バブル崩壊以降はこの軸を失い、社会全体が不安定化する一方にある。都市もまた利潤性を錦の御旗にスクラップ&ビルドを続けた結果、日本中の街はどこも似たような鉄とガラスのビル群が景色の基調をつくり、同じ企業やチェーン店の看板による順列組み合わせがビルの谷間を果てしなく埋め、コンクリートの護岸が河川や海岸をどこまでも輪郭づける、実に無個性な風景へと堕した。都市の没個性はそこに暮らす人々から、その土地に属す人間としての根拠を奪い去り、引き起こされた心境の空虚は人をますます孤立化させる。例えば近年における古地図ブームや散歩番組の高い人気などは、無意識のうち人々が土地とのつながりを希求していることの表れとみても無理はないだろう。

 伝統宗教は各宗教・宗派がもつ教理の異同によらず、変化の速い現代社会に存続する上でしばしば文化文物の保存継承を重要な役割として担ってきた。精神性を核とする信仰の本質とはまた次元の異なる水準で、信仰の伝統が育んできた学問・芸術・文化の所産としての文物には、形としてそうあるべき必然が内包される。格差の拡大、政治の右傾化などにより都市に暮らす人々の不安要素が膨らみつづける21世紀の今日においては、この形に内包された必然こそ人々が一層強く求めるものとなりつつある。建築は、この《形》の最たるものだ。

 「芸術は、精神的状況の性格が何であるかということを指示する。それは科学や哲学よりもっと即時的かつ直接的にこのことを指示する。というのは、それは客観的な考慮問題をそれほど抱えていないからである」

 『芸術と建築について』(前川道郎訳、教文館)でこのように記す神学者パウル・ティリッヒはまた、芸術
における建築の位置について以下のように述べている。

 「私は、建築がただ視覚芸術や芸術一般に従ってみられることはできないと信じている。建築は目的によって確とした性格に縛られており、非合理な想像作用に熱狂することができない」

 ティリッヒの言う「目的」とは、今日的な文脈において何を意味するか。このことを考え抜くため、本連載では単に見栄えが荘厳であったり、観光客にもてはやされる種の美麗な建築物ばかりを対象とすることはない。そうした物見遊山に役立つ言及であれば書店にもネット上にもすでにあふれ返っているし、そこに本紙が新章を加える必然性は認められないからだ。

 序章となる今回の写真に挙げるのは、日本基督教団王子北教会の外観である。例えば東京都北区の住宅街の中にある、何の変哲もないありふれた一戸建て住居を改装したこの教会建物の《形》の内にこそ、日本社会におけるプロテスタンティズムの足どりと立ち位置、および可能性を看取する。王子北教会の建物については連載後半に詳しく扱うが、このように個別特殊の歴史性や人的文脈を携えた各々のキリスト教建築を、実際にこの足で訪れ、生身で体験し、周辺の人々や街との連環の総体を観察して、具体物に即した思索と記述を試みる。次回以降、そうした試みの連鎖が本連載の基底となる。

藤本 徹
 ふじもと・とおる 
埼玉生まれ。東京藝術大学美術学部卒、同大学院 美術研究科中退。公立美術館学芸課勤務などを経て、現在タイ王国バンコク在住。

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