【宗教リテラシー向上委員会】 本質的なものの見直しを 池口龍法 2017年9月11日
今年は宗教改革500周年の年であるが、日本仏教においては、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などの多くの宗派を生んだ鎌倉新仏教が、宗教改革だと言われることがある。
ちょうど500年前、ルターは「95箇条の論題」を発表して贖宥状による罪の許しを批判した。同じように、鎌倉新仏教の旗手で浄土宗を開いた法然は、「仏像を造り塔を建てるなどの功徳によって、人は救われるのではない」と言って仏教の旧態を批判した。法然の視線の先にあったのは、塔を建てたりすることのできるひとにぎりの貴族ではなく、平安末期の戦乱の時代に苦しんでいた庶民だった。だから法然は、誰もが実践できる教えとして、南無阿弥陀仏とひたすら唱える「専修(せんじゅ)念仏」を修行として重んじた。
しかし、800年以上が経過した現代ではどうだろうか。念仏もお寺も、人々の生活からまったく縁遠いものになっている。日本仏教は「葬式仏教」と言われ、僧侶はといえば葬送儀礼の飾り物のように扱われている。もう一度、宗教改革が必要なのではないか。
家ごとの宗教を前提にした檀家制度はもう時代遅れだと言われる。少子化が進み、生涯未婚率も上昇している中で、家が絶えることは珍しくない。寺院護持の仕組みの改革に躍起になる僧侶もいるが、大切なのはむしろこの機会に仏教の本質に立ち返ることだろう。
釈迦以来、仏教は「無我」を説く。無我の思想は、デカルトが「われ思う。ゆえに我あり」と言ったことに象徴されるような近代的な自我意識を否定するものだと、時に受け取られる。そのような側面もないことはないが、無我の思想においてより重要なのは、自我への執着を離れて、あらゆるものを関わりの中でとらえていくことである。過去から現在そして未来へと流れていく歴史のわずかなひとコマとして、わたしたちの命がある。その命も、ひとりでに存続しているわけではなく、この地球の豊かな環境資源のもとで、動植物の命を日々もらいながら、何とか成り立っているに過ぎない。
あらゆるものは関わり合っていることを突き詰めれば、自己と他者の間に違いはないことにたどり着く。これを「自他不二」という。無我の思想をベースにした、仏教的な平等観である。先に引いた法然の言葉においては、富める者も貧しい者も等しく仏の救済の対象として、愛をもって語られていた。社会的地位などの違いにとらわれず、あらゆる人々を等しく大切に思い、さらには、ペットや庭木などの動植物に至るまで、我が身を愛するのと同じように、慈愛を注いでいくべきであろう。
日本では古くは空海が「草木もまた成仏する」と言った。あらゆるものを拝む対象として見る「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という思想は、この国の仏教の中で長く語り継がれてきた。仏教の興ったインドでは、草木が心を持つとは経典に説かれないけれども、「自他不二」の平等観から考えれば、わたしたちの世界観の方がより豊かであるように思われる。しかも、世界が日に日に小さくなっている時代においては、あらゆるものとの共存を願う心が求められるから、「草木国土悉皆成仏」という思想はいよいよ見直され、わたしたちの生きる指針とされていくべきだろう。
宗教改革から節目の年を、過去へのオマージュをうたって終わりにするのではなく、宗教における本質的なものが見直されていくことを願う。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽。