【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 牧道の妻たちへ キョウカイグリーン 2017年9月21日
先生の教会に牧師夫人はいますか?」 と神学生がわたしに聞いてきた。わたしに妻がいて、承太郎という子どもがいることも彼は知っている。その質問に「おぉぉ」と唸らされた。
読者の中には、「男性牧師に妻がいたら、当然それは牧師夫人である」と疑いなく思っている方もいるだろう。言うまでもないが、この神学生の質問の前提はそうではない。男性牧師に妻がいても、牧師夫人とは限らないのだ。近年、わたしの属する教団だとアラフォー以下の牧師の妻は「わたしは牧師夫人ではありません。〇〇(名前)さんと呼んでください」というケースが増えている。
友人の牧師の妻(30代)が「どうして自分の親のような年齢の方から『奥さん』と呼ばれなきゃならないんですか!」と嘆いていた。確かに冷静に考えるとおかしい。とはいえ、本紙も今となっては黒歴史だろうが「教会の奥さん」という牧師夫人へのインタビュー記事が1965年から5年間にわたって連載されたことがある。
「奥さん」という呼称が適切かはさておき、かつて日本で多くの教会が使い続けてきたワードであり、「教会の奥さん」であることを背負って生き抜いた牧師夫人たちがいたのも事実である。
そんな話を耳にしながら、映画『極道の妻たち』ならぬ『牧道の妻たち』という言葉が頭をかすめ、さっそくレンタル店に行って『極妻』シリーズを借りて観た。1985年の映画で、ちょうど男女雇用機会均等法が施行された年。これまで極道モノといえば男性が主人公だったが、女優の岩下志麻が主人公で、男性だけでなく女性からも支持を得たらしい。岩下志麻演じる「極妻」が、牧師の欠けたところを補い、組織を切り盛りす る牧師夫人に見えてならなかった。大ヒットした背景には、男が弱く、女が強くなっていく時代の流れがあったと評される。とはいえ、この映画はあくまで『極道の妻たち』なのだ。つまり夫の職業があり、その伴侶だからこそのアイデンティティなのである。
『極妻』の大ヒットは、女性が裏方に徹する時代から、夫の職業を補う主役的な牧師夫人像を象徴しているのかもしれない。しかし、そ のヒットから30年以上が経った。もはや妻たちは、夫の職業に依存しない自らのアイデンティティを、より明確に自覚してきているし、若ければ若いほどその傾向が強いように思う。彼女たちは『牧道の妻たち』ではない。『共同体のわたし』 という言い方が適切かもしれない。
牧師夫人らしさとか、妻らしさ、女らしさが強いられるのではなく、家族なり、教会なり、神に召された共同体においてわたしが何に召されているのか、それこそが当人も、周囲も大切にしていきたいことなのだ。『ボクドウの妻たち』から『キョウドウのわたし』へ。この移行期を、丁寧に向き合いながら前進したい。
ちなみに、うちは『ボクドウの妻たち』 と『キョウドウのわたし』の 二股状態だ。牧師夫人がうちの教会にいると言えばいるが、既存の枠からずいぶん離れた自由な牧師夫人だと思う。妻も自由だし、教会員も強いてはいない関係性にある。男性牧師の妻である本人に召命感もないのに、「牧師夫人」という役目を強いることは避けたい。
とはいえ、高齢化を迎えた日本の教会では奉仕者がますます減り、「牧師夫人」もいない中(それは歓迎すべきことではあるが)、牧 師の孤軍奮闘が増えてきたように思う。改めて、共同体全体で微力であっても結集し、〝共に仕える教会文化〟の創造が問われている。あらゆる信徒が「共同体のわたし」として何に召されているか、明確化していく必要を感じている。
キョウカイグリーン
緑方定助(みどりかた・じ ょうすけ)地域のパパ友・ ママ友との交流が広く、日々育児日記をつづってい る育児系ブロガー牧師。何よりも 愛する家族を最優先し、困ったら一目散に逃げる。息子・承太郎といつも一緒。 武器:共感イヤー/必殺技:宣言アタック/弱点: 妻