【映画評】 『ダンケルク』 総合のための約束を不在にした現代 2017年10月1日

『ダンケルク』
監督:クリストファー・ノーラン
出演:フィン・ホワイトヘッド、ハリー・スタイルズほか

 本作はフランス領土北端のダンケルクに追い詰められた英仏連合軍40万人の兵士たちを救出するために、イギリスの民間船が徴収・動員された大規模な「撤退戦」 、第二次世界大戦における史実を描く。

 ノーラン監督は、断片的な事実を総合する超越的な視点、物語を描いてきた映像作家である。本作は、陸海空の三つの視点を巡回しながら進行する。陸は救出を待つ防波堤付近の英仏連合軍の1週間、海はイギリスから救出に向かうある民間船の1日、空はダンケルクを強襲するドイツ軍から連合軍を援護する戦闘機の1時間を映す。

 このような、すれ違うタイムラインの交錯は同監督作品『インセプション』『インターステラー』にも同様に見られる特徴だが、『ダンケルク』ではこれらが両作のように総合されることがない。

 本作が試みるのは、いわば「総合」そのものへの抵抗である。一見、ドーバー海峡を渡って脱出して家へ帰るという「救済」がテーマのようだが、浸水する機内、銃撃場面など危機の状況にあって、めまぐるしく交代する視点は総合に見せかけた擬似的同期でしかない。また、三つのタイムラインはついぞ収斂することがない。それぞれのタイムラインはそのままのスケールを維持し、序盤から特権的に「未来」を見ることができた空軍の視点は、終盤にあっては「過去」としてダンケルクに置き去りにされることになる。

 このような「総合」の解体は、映画全体の構成に限るものではない。定員の限られた救難乗船のために、兵士たちは階級や国籍を口実に分割線を引く。いつ終わるとも知れぬ襲撃の恐怖が、味方への疑念を呼ぶ。英仏連合軍は、生存の確率を争って個々の兵士の所属を撹乱させていく。彼ら兵士の名前が呼ばれることは、ほぼ無い。終幕にあたり、作戦成功を知らせる新聞記事が「英雄」とした彼は、「新世界」の犠牲として死んだわけではない。

 『ダンケルク』は、「総合」との戦いを描いた作品である。死者を意味付ける物語、「いま・ここ」を保証する時間的同期は、中心的な視点あるいは人物を固定する。だからこそ、かつてドイツは戦意高揚の道具として映画を重用した。本作における映像の詐術を露悪的に暴くこの試みは戦争映画として提出されている点に限って肯定できる。しかし、これまでの同監督の歩みとしては後退と言わざるを得ない。

 分かたれたタイムライン、中心的な視点の失調は、今やわたしたちの情報環境の条件だ。『ダンケルク』が暴露したことを、わたしたちはすでに知っている。しかし、だからこそ密室の時間芸術としての映画が、分離した時空間を圧縮し得る装置として求められるのではないか。『インターステラー』では分離したタイムラインを総合し得る「愛」と「引力」が重ねられて、家族との再会を約束した物語が描かれた。多くの映画がミュージック・クリップのように作られる昨今、『ダンケルク』は視聴者に自己批判を迫るに留まってしまった。わたしたちが知りたいのは、新しい「総合」の手がかりなのだ。

 ノーランは本作によって、物語を失い自己批判だけが残響する世界を描くことで、総合のための約束を不在にした現代を浮き彫りにした。しかし、そもそもわたしたちは何の約束もなしに、たとえば「物語」なしに、たとえば「神」なしに、時間の只中に身を置くことができるだろうか。 (批評家 黒嵜想)

全国順次公開中。 配給:ワーナー・ブラザース映画

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