【宗教リテラシー向上委員会】 たとえ対話は平行線をたどっても… 池口龍法 2017年10月21日
あるプロテスタントの信者から、「仏教では世界の始まりをどう考えますか」と、問いかけられたことがある。本人には悪意はなかったのだろうが、その真剣なまなざしは、「神が世界を創造したと認めないのですか」とわたしを試しているように感じられた。
わたしなりに丁寧に回答したが、仏教の世界観はまるで伝わらず、議論は平行線をたどった。いま振り返れば仕方のないことだと思う。聖書は神が世界の中心にあるが、仏典における主題は人間の心である。仏教は、わたしたちが心の弱さゆえにいかに迷い、いかに悪業を犯すかを見つめていく。したがって、世界がどのようにして始まったかなど、大した問題ではないのである。
もっとも、膨大な量の仏典の中には、仏教なりの「天地創造」を書いたものが、わずかながら存在する。世親(せしん)という学僧の著書『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』には、「なにもない空間のなかに、人々の業のはたらきによって風が吹く」と、世界の始まりについて記されている。やはり造物主としての神が登場するわけではない。神に代わるのは人々の業の力である。世界は人々の業のはたらきによって生まれ、また滅していく。滅し終わ ればまた生成する。その中で暮らす人間の寿命は、10歳まで短くなったり、8万歳まで長くなったりを繰り返す。
人間の寿命については、『華厳経(けごんきょう)』(巻第七十)にこんなエピソードがある。繁栄を極めていた王国の中で、ある人が「俺に比べてお前はなんてキモいのか」と言い放ったところから、ののしり合いが始まった。そして、悪業が蓄積された結果、人々の寿命は短くなり、この世の幸せはすべて失われてしまったという。
このような世界観をわたしたちはにわかに信じられないかもしれない。しかし、近代科学以前の世界観を読み解く上で大切なのは、客観的正確さではなく、そこに寓意される主題である。インドの仏教徒が、発展と荒廃を繰り返す世界観に託したのは何だったのか。それはおそらく、人類の栄枯盛衰のはかない歴史だろうとわたしは理解している。
わが国でも「驕(おご)れる平家は久しからず」というように、ひと握りの人々の慢心が社会全体を荒廃させた例は、いくらでもある。いまの政治状況もまさにそうであり、わたしたちは大義なき選挙に巻き込まれている。その日本の上空を、隣国からのミサイルが通過していく。人々の業が積み重なると、この世はどんどん住みにくくなっていく。いにしえの仏教徒が鳴らした警鐘に、わたしたちはまだ応えられていない。
仏教が見ているこのような風景を、できることならキリスト教徒やイスラム教徒にも見てほしいが、それは単なるおせっかいなのかもしれない。冒頭に触れたように、実際には他宗教の信者に世界観を伝えるのは難しく、対話は平行線をたどることが多い。ジョン・ヒックの宗教多元主義が批判の的になっているというのも、分かる気がするのである。
それでも、この連載企画は、SNS上などで大きな関心を集めている。わたしの実感としても、この紙面においてキリスト教やイスラム教と胸を開いて語り合う時間は、純粋に楽しい。わたしたちは同じ地球上の同じ時代を生きなければならない。宗教間対話は避けて通れないから、このような開かれた場が存在することは、はかり知れない価値を持つ。
仏教の業の論理によって世界を眺めるのか、あるいは他の立場に立つのか。正解は一つではない。さまざまな宗教から、さまざまな教訓を引き出し、対話を重ねていく。それが豊かな宗教文化を誇る人類にふさわしい生き方ではないか。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽