【宗教リテラシー向上委員会】 落語と談志と宗教と ナセル永野 2017年12月25日
ちょいと、ちょいと、おまえさん起きとくれよ!」といえば師走の風物詩、落語「芝浜」だ。ご存じない方のために「芝浜」のあらすじを簡単に紹介しておこう。
主人公は腕はいいが大酒飲みのため貧乏な魚屋の勝五郎。物語は勝五郎が2週間ぶりに仕事に向かう日の朝から始まる。奥さんに起こされ嫌々仕事に向かった勝五郎は偶然大金の入った財布を拾う。喜んだ勝五郎は、友だちを集めて酒盛りをしたあげく寝てしまう。翌朝、奥さんに起こされた勝五郎は「財布など拾っていない」「それは夢だ」と言われてショックを受ける。これがきっかけとなり勝五郎は禁酒をして仕事に専念し、店を大繁盛させるまでに成長する。
そして3年後の大晦日、奥さんが勝五郎の拾ってきた財布を見せ、夢と言ってだましたことを謝まると、勝五郎は奥さんが自分のために嘘をついてくれたことに感謝の涙を流す。そして奥さんの勧めで3年ぶりに酒を飲もうと口までもっていくが、「よそう、また夢になるといけねえ」とつぶやいう呟きで幕が閉じる(落語家によって若干のアレンジはある)。
酒に溺れ仕事をしなかった勝五郎だけではない。3年間コツコツ貯めた金を遊郭で一晩のうちに使ってしまった「紺屋高尾」の久蔵。死の間際に貯めていた金を餅と一緒にして食べてしまった僧侶の西念と、その光景を目撃し西念の死後に体内から金を取り出して歓喜した金兵衛の姿が描かれている「黄金餅」。このような呆れるくらい非常識な行動をとる人物が落語の世界には数多く登場する。
落語界の奇才と呼ばれた立川談志は落語を「人間の業の肯定」と定義した。人間は頭では理解しているはずのことでも、実際はその通りに行動できない。欲もあるし、見栄も張りたい、尊敬もされたい……そんな人間であれば誰もが持っている「業」(弱い部分非常識な部分)を認めてしまうのが落語なのだという。
例えば、12月になると歌舞伎や講談など古典芸能の大半は「忠臣蔵」を模した演目があるが、落語には「忠臣蔵」という演目が存在しない。その理由を「忠臣蔵は美談すぎるからだ」と立川談志は説明している。赤穂藩には300人近い家来がいたはずだが、実際に討ち入りを果たし義士として語られているのは47人だ。つまり残りの250人は討ち入りに参加していないのだ。この逃げ出してしまった大勢の赤穂たちこそが落語の扱う領域なのだと立川談志は語った。
本来、どの宗教でも人間の弱さについては言及されているはずだ。コーランにもハッキリと「人間は(生れ付き)弱いものに創られている」(4:28)と記載されている。そのため、イスラムには聖職者がいない。どんな人間でも間違いを犯してしまうからだ。そんな弱い人間に対し「アッラーは人の犯した悪行を抹消することさえなさる。アッラーはまた、極悪者以外には誰をも破滅させることはなさらない」と預言者ムハンマドは語ったという。この「人間の弱い部分を認める懐の大きさ」という点で、落語の世界観と宗教的な世界観がわたしの中でシンクロしているのだ。
これまで落語は仏教的な視点から論じられることは多々あった。しかし、わたしは落語の世界からイスラム的な人間性を感じずにはいられない。同様にキリスト教の視点からも落語を論じることも十分に可能であろう。各宗教から見た「落語の世界観」について、要望があればキリスト新聞社が何らかの企画を実現してくれるはず(?)だ。その実現のためにも年末年始、今までとは別の視点で落語を聴きに行ってみてはいかがだろうか?
ナセル永野(日本人ムスリム)
なせる・ながの 1984年、千葉県生まれ。大学・大学院とイスラム研究を行い2008年にイスラムへ入信。超宗教コミュニティラジオ「ピカステ」(http : //pika.st)、宗教ワークショップグループ「WORKSHOPAID」(https : //www.facebook.com/workshopaid)などの活動をとおして積極的に宗教間対話を行っている。