【宗教リテラシー向上委員会】 火葬場の職員のような仕事 波勢邦生 2018年1月11日
昨年11月、父方の祖父が逝った。享年93歳、作家・三島由紀夫と同世代だった。大正末に生まれ、海軍兵学校に入り、さあ出撃戦死という手前で戦争が止んだ。花に包まれ、棺に眠り、白く乾いた祖父を深く受け止めつつ、同時に火葬場の職員たちの仕事に感銘を受けた。
一昨年の夏には母方祖母が亡くなった。礼拝直前に連絡を受け、泣きながら教会が歌うキリエエレイソンを聞いた。神に向かって祈りのことばが立ち上がらぬ時、讃美の歌声が枯れる日にこそ、信仰共同体としての教会に意味があることを知った。歴史の中で宗教はそうやって人々に寄り添ってきた。では、宗教メディアにはどんな仕事があるだろうか。
宗教と報道といえば、トランプ米大統領の「エルサレム首都認定」が問題となっている。和平のための努力を足蹴にするつもりはないが、エルサレムという高度に政治的地理的な問題を解決するには今後500年でも足りないだろう。1000年あればあるいは、と考える。多くの報道がこれを宗教問題と誤認している。しかし、基本的には近代国家間における歴史的な領土問題だ。
少なくともキリスト教の伝統では、天のエルサレムと地上のエルサレムは区別されて然るべきだ。確かにエルサレムは聖地であるが、宗教である以上、今生と来世、此岸と彼岸という「世界の二重性」が視野に入ってくる。そこを見誤ると、あの壁にさらに嘆きを重ねることになる。
近代メディア(新聞、ラジオ、雑誌、テレビ)は、その本質ゆえに「死者の世界」を公共圏として捉えることができない。しかし、宗教問題として報道する以上は、死者という近代が排除した「他者/聖なるもの」に無自覚ではいられない。そこに、本紙やカトリック新聞、または中外日報や聖教新聞などを含む宗教メディアの役割がある。
それは僧侶・司祭のような宗教的シンボルを全面的に引き受けることではない。火葬場の職員のような仕事だ。学会・大学・出版・報道・書店において近代社会は「知の再生産」を行い、自らを更新する。そのシステムと一体化し「死者」の声を招き公共圏において復権し、事実上、死者として扱われている生者の声を可視化すること、この世とあの世に足かける宗教家の隣人となり、彼らのことばを通訳可能にして、死者の市民権を確認し、生きた歴史性からニュースを浮き彫りにすること、それが宗教メディアの仕事だ。
昭和と平成を駆け抜けて世を去った家族の顔を思いながら、研究の一環で「死後生」について読んでいる。アブラハムの宗教と影響関係が指摘され得るメソポタミア、ペルシャ関連、または近代英国における心霊科学、例えばオリバー・ロッヂ『死後の生存』などにも目を通してみた。
古今東西、さまざまな教説があれど究極的には分からない。しかし、それら数多の死と向き合った言葉たちは、少なくとも人類にとって「死の受容史」といえる。例えばキリスト教絡みの戦時戦後文学といえば、吉田満を思い出す。人は死の意味を、あるいは生き残ってしまったことの意味を問う。真宗の司馬遼太郎、瀬島龍三は最後に何を思っただろう。
宗教と文学は「死」の意味を与えて描くことで現在を相対化する。無始無終、三千世界の生成消滅の中で、あるいは永遠と歴史が口づけした一個の人格において、人の死は流れと向きを得る。宗教を報じるに必要なことは、その深い河に足首まで浸って、歴史性と超越性から文明批判と社会批評を行うことだ。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。