【教会建築ぶらり旅】 日本基督教団 根津教会■大正の古趣と洋の異彩 藤本 徹 2018年2月1日
東京・根津の表通りから一歩入ると、そこには昭和の下町情緒を強く残す木造家屋や低層のアパートが並ぶ。寺社や職人気質の老舗専門店が多いこの一帯は、〝谷根千〟の名で観光客にも親しまれている。和の風趣あふれるこの地域にあって、洋風の異彩を放ちつつ不思議と周囲に馴染んでいるのが、日本基督教団根津教会の礼拝堂建築だ。
根津教会を目指して小道を曲がると、まず通りに面した尖塔の赤屋根が、そして水平に長板を並べた正面の白壁が目に入る。尖ったアーチ状の窓枠は、十字架を冠する尖塔と併せキリスト教会堂であることを認識させる。また塀をもたない門構えは、初訪者にも開放的な印象を自然に与える。
この礼拝堂が洋風建築でありながら辺りの民家との調和を保って見えるのには、主に三つの理由が考えられる。まず木造であること。木造建 築に特有の温かみは、周囲の木造民家や古建築群との間に通奏低音を響かせる。
次に大きさ。ゴシック風の形態をもちながら、間口としては一帯の木造家屋と変わらない規模であることが、建物に一層の親しみを添えている。
そして時間。この教会堂が建てられたのは1919(大正8)年。つまり近辺の歴史的建造物のほとんどより圧倒的に古くからこの地に建つために、戦前の昭和建築すら浮いて見えるほど根津教会の存在は街区形成の基調を成している。長い歴史をもつ教会堂には中庭や前庭が付き物なのに対し、敷地目一杯を建物が占める根津教会が意外なほど窮屈感を醸していないのも、いわば地域全体が教会の庭でもあるように共鳴し合うゆえだろう。
東京において大正期の木造教会建築が、関東大震災も東京大空襲も免れ現存へ到るケースは極めて稀だ。前々回に扱った東京で最初にカトリック大司教座が置かれた築地教会や、その始めから日本正教会の主教座大聖堂である御茶ノ水のニコライ堂も、聖堂建築そのものは大震災以降の再建になる。また今日でこそ、古建築の文化財的価値を尊ぶ気風は世間的にも共有されてきたが、高度経済成長時やバブル狂瀾の時代には前のめりの経済合理性や教勢の拡大など多様な観点から、歴史的に価値ある建築の多くがスクラップ・アンド・ビルドの荒波へ消え去った。
根津や谷中が都心部では最も経済合理性から見放され開発の手が遅れてきたゆえに、今日世界中から観光客を集めていることは皮肉とも言え、また根津教会に固有の事情としても、改築需要とのせめぎ合いは積年の課題であった。
実際問題として、大正建築の老朽化対策を講じるうえで維持保存という選択が、改築よりも容易だとはまったく言えない。これは古い礼拝堂を擁する教会の多くが共通して抱える問題だが、根津教会の行ってきた取り組みはこの点で極めて興味深い。そこでは、教会建築の再生計画にさまざまな立場で関わった人々による価値観の衝突から実現へ至る過程の全体が、福音伝道の場という教会建築の本義と直に響き合う道のりそのものとなった。(つづく)
*本年1月3日、長らく根津教会の主任牧師を務めてこられた鍋谷憲一氏が召天されました。取材の承諾をいただきながら、本記事執筆にあたって直接お話をうかがうことは叶いませんでした。鍋谷牧師の安らかなる眠りをお祈り致します。
【Data】 日本基督教団根津教会礼拝堂
竣工:1919年(大正8年)
設計:不詳
様式:ゴシック様式風
建築面積:185㎡
構造:木造平屋建・下見板張り・瓦 一部金属板葺・塔屋付
所在地:東京都文京区根津1‒19‒6
藤本 徹
ふじもと・とおる 埼玉生まれ。東京藝術大学美術学部卒、同大学院 美術研究科中退。公立美術館学芸課勤務などを経て、現在タイ王国バンコク在住。