【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 「何も欠けることがない」教会 キョウカイグリーン 2018年3月21日
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と詩編23編の作者は語った。この言葉を愛唱するキリスト者は多いにもかかわらず、21世紀の日本の教会に集う者たちは乏しさを実感している。高齢化で若者が集まらない、経済難で会堂の建て替え/改修ができない、牧師給を減額せざるを得ない現実がある。電気もガスもインターネットも宅配便もコンビニもない旧約の時代に「何も欠けることがない」と詩人は語ったのに対し、それらを豊かに享受し、かつ世界全体からすれば金持ちに分類される所得であったとしても「あれもこれも欠けている」と語っている。
垂れ流されるコマーシャルは絶えず、「あなたには欠けがあるでしょうが、これを買えば満たされます」と誘惑し続ける。その結果、購入し満たされることもあるのだが、しばらくすると欠けを自覚し、次の購入をせずにいられなくなる。我々に比べ圧倒的に物質的に不足していたはずの詩編の詩人が「何も欠けることがない」と語っても、満たされぬまま購買欲が止まらない。
我々はどうも、そんな消費文化にどっぷり浸かって染められてしまったようだ。「何も欠けることがない」を愛唱しながら、お金がなくて困っていますとボヤく教会に、世間の人がわざわざ行く魅力があるのだろうか。
「牧師の数が足りない」という話も聞く。ホントかなと思う。ちなみにわたしが属する教団は各教会が牧師給を十分に払えないため、バブル時代に増やした資産を確実に食いつぶしながら牧師給の援助を行い、ストックは確実にゼロへと向かっている。年単位で言うなら牧師給を十分に支払えるほどの献金収入はない。教会数に対して牧師の数は足りないかもしれないが、献金収入から考えれば牧師数は過剰なのだ。そしてそれはきっと、わたしの属する教団・教会のみならず、多くのキリスト教会に共通する実状ではないかと思う。
子育て世代のわたしとしては悩ましい話なのだが、牧師自身も消費からどれだけ自由になれるかも問われる。もちろん、子どもの教育費、進学費用を工面する必要はある。そんな中でも「何も欠けることがない」という暮らしについてチャレンジを迫られている。先に述べたように牧師の数は過剰なのだから、牧師を辞して、他の仕事に就くことも道かもしれないと自らの召命を鋭く問われているこ
とも事実だ。
それと共に教会員も問われている。牧師に副業をしてもらって、少ない牧師給で一教会に縛り付け、「牧師先生」と口では奉りながら、あれもこれもやってもらおうとしてないだろうか。自らの教会の献金収入と牧師給に充てられる金額を考えるなら、牧師にいくつかの教会を兼任してもらい、数週に1度、顔を合わせられる状況を「何も欠けることがない」と言えるように目指すことも今の時代のチャレンジなのだと思う。
「富は海水のようなものだ。飲めば飲むほどに渇きをおぼえる」とドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは語った。いくらあっても足りないのが富だし、教会もお金の使い方、向き合い方について修正が迫られている。「あの教会、いろいろ足りないものがいっぱいありそうなのに、何も欠けていない感じなのよね。なんでだろう?」と世間が不思議がって見る教会。それがこれからの教会の姿であると共に本来の教会の姿じゃないかと思っている。
キョウカイグリーン
緑方定助(みどりかた・じ ょうすけ)地域のパパ友・ ママ友との交流が広く、日々育児日記をつづってい る育児系ブロガー牧師。何よりも 愛する家族を最優先し、困ったら一目散に逃げる。息子・承太郎といつも一緒。 武器:共感イヤー/必殺技:宣言アタック/弱点: 妻