【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 「明るい子」育てるのが役目? 総督 2018年5月11日
新年度を迎え、子どもたちを取り巻く環境が一変するこの時期。いつも心に引っかかる言葉がある。それは、多くの学校や教育行政で使われてきた「明るい子」。ある小学校では、「たくましい子」「かんがえる子」「やさしい子」と共に教育目標として仰々しく掲げられている。
「明るい=善」という価値観を小学校から植え付けられることによって居場所を失う子どもたちが、「根暗」「陰キャ(陰気なキャラ)」などと揶揄されるのは極めて由々しき事態と考える。理想を掲げれば掲げるほど、その価値規範に沿わない子はふるい落とされていく。そうして構築されたスクールカースト(明るい活発な子が優位に立ち発言力を持つ)は、学校のお墨付きを得てより強固なものとなる。そこで一度格付けされてしまった「階層」から抜け出るのは至難の業である。
口数も少なく、人付き合いが苦手で、不器用で、たくましくなくて何が悪いもともと「内気」で「おとなしい」子はいるし、そうそう変えられるものでもない。
例えば学校の教育目標に「五体満足」「容姿端麗」「高身長」「黒髪」「裸眼で視力2.0」などと掲げられていたらどうだろう。生まれもった特性で、自身の意思では変えられない部分について侮蔑することは差別として許されない。「明るい」を評価基準にする行為はこれに限りなく近い。
確かに卒業してからのことを考えれば、これらの要素を備えるに越したことはないし、現実問題として「陰キャ」より「陽キャ(陽気なキャラ)」の方が就職には有利に違いない。すでに進学のためには内申点が重要とされ、個人の性格だけでなく部活や委員会活動、地域でのボランティアに至るまでポイント制で加算の対象となってしまっている。就職のため、大学のため、高校のため、中学のためと先回りして対策を練り、その先を考える暇もなく走らされ、大人の理想とする「いい子」を演じさせられ、すべてを前倒しして生き急いだ先に、いったいどんな「明るい未来」が待っているというのだろう。
少なくとも公教育の役割は経済界の求める人材を育てることではない。たとえ「たくましく」なくても「明るく」なくても生きやすい社会であるべきではないか。「個性を尊重」すると口では言いながら、ことごとく出る杭を打ちたがるこの国で、学校がすべきなのは「独りで考え判断し、周りに流されない自立した個」を育てることである。おカミの命令に従順な「型どおり」の人間を作るだけなら、そこはもはや教育機関ではない。当たり前のように大人たちが振りかざす一つひとつの「スローガン」について「なぜ?」と問い、自分の頭で考える力こそが求められている。
今日の教会には、そんな価値観にがんじがらめになった子どもたちが少なからずいる。間違っても我々は、一緒になって「明るい子」を育てようなどと口にしてはいけない。とりわけ牧師や信者の家庭に生まれた子どもたちに、「お行儀よくあいさつができる」「真面目で無垢な」「明るくてやさしい」子を「いい子」像として押しつけてはいないだろうか。家庭にも、学校にも居場所を見出せずにたどり着いた先の教会で、同じ理想を語られたら、もはや彼らに逃げ場はない。
総督
名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。
武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)