【映画評】 『ビューティフル・デイ』 壊れているのは世界なのか 2018年6月6日
世界が壊れているのか。壊れているのは自分なのか。「初めからお前は存在しなかった(“You were never really here”)」という原題の傑作映画『ビューティフル・デイ』がこの6月、日本公開となる。己を己たらしめるもの、己の存在を明かし留めてくれるもの、痛み、肉体、記憶、呼び声。極力セリフが排された本作が声高に語ることは決してないが、実のところこれはイエスにより死から蘇ったラザロの物語そのものの複奏曲、その現代篇だ。
行方不明者捜索のスペシャリストであり過去に傷を抱える主人公が、あらゆる感情の欠落した少女を救い出す物語。映画『ビューティフル・デイ』のストーリーを一行でまとめれば、そこからは即座にデ・ニーロの『タクシードライバー』やジャン・レノの『レオン』など《中年男が囚われの少女を救い出す》筋立てをもつひと連なりの系譜が連想される。しかしそのいずれとも似ていない本作は、到達した表現性の高みにおいてこの系譜に連なる名作群の全てに匹敵する。第70回カンヌ国際映画祭で本作が男優賞、脚本賞の二冠を獲得したのも納得の出来栄えだ。
ホアキン・フェニックス演じる主人公は元海兵隊員で、FBIの潜伏捜査官として働いた経験を活かし行方不明者の捜索を生業としながら、認知症の老いた母と暮らしている。映画では冒頭から、主人公が武器としてハンマーを多用する様が描かれる。ハンマーはあまりにもありふれているため証拠として同定されにくく、また至近での格闘にいくつかの利点をもつと同時に、かつて父親が彼や母親に対して使用した武器でもある。つまり彼の日常でもある肉体的暴力は、トラウマに触れるという彼自身への精神的暴力を常に伴う。幼少期の虐待と戦場での過酷体験によるPTSDにさいなまれ、FBI在籍時に目撃した人身売買の地獄絵図が日常的にフラッシュバックする彼は自殺願望を抱えつつ、常用する睡眠薬により朦朧としながら街を彷徨(さまよ)う。そしてある上院議員からの依頼で、失踪した少女の行方を追ううち、不可逆の崩壊へと歩み始める。
こうしてあらすじのみを説明すれば、『ビューティフル・デイ』は血生臭さこそ売りの暴力映画とも読めるだろうが実態は真逆である。たとえば主人公がハンマー片手に犯罪組織の黒幕を追い詰める、アクション映画であれば最大の見せ場となるシーンなどは、モノクロの監視カメラ映像により粗く処理される。逆に本作が執拗なまでに映しだすのは、朦朧とした意識のまま移動を続ける主人公の目に映り出る、虚実さだかならぬこの世の路地の光景や路線バスからの雨滴に濡れた窓景色だ。
懐にハンマーを隠しもつ脂ぎって腹の出た中年男はそうして、あたかもウサギを追い迷宮の奥へ奥へと深く潜り込むアリスのように、現代世界の象徴そのものでもあるニューヨークが象る都市荒景の底へ降りていく。そしてまさにこの点こそが鋭い今日的批評性を本作にもたらしたのだが、この前衛姿勢を貫く女性監督リン・ラムジーの映像を全面的にバックアップするのはロックバンド・レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドによるサウンドトラックだ。それは当代随一の先端性を具えた映画音楽を顕現させてかつ、場面に寄り添いときに展開を牽引する迫真性に充ちた音響を生み、また決め手となる幾つかのシーンにおいては、ただその響きの遷移により直截に物語を語りさえする。
振り下ろされたハンマーが肉体へ沈み込む鈍い音。自殺念慮に駆られた主人公が吸い込むビニールのかすれる音。深夜のアスファルトを這うタクシーのタイヤが立てる擦り切れそうな走行音。これらに沈鬱なストリングスやメタリックなエレクトロが被さり、ときに緊迫する心臓の重たい鼓動や追い詰められた神経が内面に立てる不協和音、ときに運転手の口笛や暗殺者のハミングへとシームレスに音景は連続する。それら音の逐一が映像と全く不可分で代替不能の、つまり作品世界を構成する完璧な布置の一部となって現象する、この水準で切り詰められた音圧に対する感度の高さを昨今の映画に看ることは極めて稀だ。世界ツアー中だったジョニー・グリーンウッドと大量の断片を送り合う形で進めた楽曲製作を、映像の撮影・編集と同時並行させたリン・ラムジー監督は、「音楽自体が作品キャラクターの一人になった」とも語る。その通り、音はたしかに目に見えず音像は不可視だが、人間の内面と同程度には視覚的であり得るのだ。
音楽との関連で言えば、『ビューティフル・デイ』の本編中で筆者の目に最も異様に映ったのは、自宅を襲い認知症の母を殺したスーツ姿の覆面刑事を、主人公が半殺しにしたあとの場面だった。主人公は死にかけの悪徳刑事に鎮痛剤を飲ませ、その隣に寝そべってラジオから流れる往年の名曲“I’ve Never Been to Me(愛はかげろうのように)”に耳を澄ませ、やがて二人で歌い出す。主人公と刑事は手をつなぎすらして天井をみつめ、一緒に訥々と歌を口ずさむ。その歌詞はこう語る。
ずっと身も心も売って生きてきた
自由を求める代償がこんなにも大きかったなんて
いま私はパラダイスを知っている
でも自分のことはわからないまま
ジョナサン・エイムズによる同タイトルの原作(唐木田みゆき訳『ビューティフル・デイ』ハヤカワ文庫NV)に、この場面は存在しない。主演のホアキン・フェニックスは脚本を書いたリン・ラムジー監督に対し、この演出について「クレイジー」と評したというが、一方でこのシークエンスこそ最も原作の核心へと肉迫することは、流れる曲のタイトル“I’ve Never Been to Me”と映画の原題“You were never really here”とがひそかに共鳴する様からもうかがえよう。
社会正義に服する警察という公職にありながら、権力者の裏世界における道具と成り下がった覆面刑事は、つい数十秒前まで殺し合った相手とはいえ真の「敵」から程遠い、この疎外された遠さにおいてむしろ近しい存在だ。ハンマーにより振り下ろされる暴力は、他者への加虐行為である前に強迫的な回復衝動であり、やむにやまれぬ癒やしの営みですらあった。物語は流れとして少女を救う形をとりながら、主人公は彼自身すら救い出せずある瞬間、救い出される。本作の映像と音はこうして転倒に転倒を重ねたあげく、表情を失った少女の奥底で眠る感情に導かれるように、ひとつの静かな境地へとたどり着く。終わらない暴力と紛争、公僕の不正と腐敗、現代の奴隷労働と児童買春、失意と悪徳に充ちた世界のどん底にこそ《ビューティフル・デイ》は到来する。彼らにとって世界の終末と崩壊、己の破壊が暗闇を呼ばず朗らかに明るいのは、壊されることでようやく“自分になる”からだ。ところでこのとき彼らとは、スクリーンの此岸における誰なのか。このリアル。
(ライター 藤本徹)
全国公開中
配給:クロックワークス
公式サイト:http://beautifulday-movie.com/
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