【宗教リテラシー向上委員会】 心を耕す念仏の再評価を 池口龍法 2018年7月11日
「ただ一向に念仏すべし」と開祖法然が遺言状の末尾にしたためたことに象徴されるように、浄土宗ではひたすら南無阿弥陀仏と唱えることを行とする。この教義を専修念仏(せんじゅねんぶつ)という。では、どの程度唱えればいいかというと、江戸時代の経本には、日々のおつとめでも「念仏千遍」と記されているらしい。1秒に1回念仏を唱えるとすれば、千遍は16分余りになる。念仏を唱える時には木魚を打つのが慣例であるから、江戸時代の教えが生きているなら、そこかしこの浄土宗のお寺や家庭から日々嫌というほどポクポクという音が響いてくるはずだが、現実には木魚の音を聞く機会は少ない。
日々のおつとめのみならず、葬式などの大法要でもやはり事情は変わらない。悲しいかな、現代の葬儀は火葬場を予約した時間が起点になり、そこから逆算して出棺の時間が決まる。そして、法要全体の長さや、弔辞や焼香のタイミングが決まっていく。念仏の時間は、ただ南無阿弥陀仏と唱え続けるだけだから、予定の時刻で法要が終わるようにその尺を調整する。儀式を円滑に執り行うための方便とはいえ、これを教義の形骸化だと言われれば返す言葉もない。
ただ、ごくまれに、専修念仏の教義通りの葬儀が行われることもある。住職を長年務めた伯父の葬儀がそうだった。通夜が終わった後も、木魚の音と念仏の声がいつまでも止まなかった。わたしは確か1時間ほど念仏して退出し、翌日の葬儀に備えたが、本堂での念仏はなおも続いていた。
翌朝、葬儀の前に親しい僧侶とふとあいさつを交わすと、その声はすっかり枯れていた。生前にたいへんお世話になったから、夜通し念仏したのだという。故人が浄土へと旅立つ時なればこそ、浄土の主である阿弥陀仏の名をひたすら唱える―伯父の葬儀では、教義がしっかりと命を持っていた。
生前、伯父は志を同じくする僧侶や信者とよく別時念仏を修めていた。別時念仏とは期間を特別に定めて30分や1時間ずっと念仏行に励むものであるが、伯父のところは特にストイックで、一度座ったら2時間や3時間、それを1日に何座も行っていた。期間が数日に及ぶこともあった。
このような念仏結社は一朝一夕にできるものではないし、また、カリスマ的な指導者の影響によるところも大きい。わたしの知るかぎり、現代まで続く浄土宗の念仏結社の系譜を調べてみると、ある浄土宗の僧侶の名前に出会う。山崎弁栄(べんねい)(1859~1920年)である。山崎の思想は、今年4月に岩波文庫から発売された遺稿集『人生の帰趣』に詳しいが、同書に基づいて簡潔に言えば、「宇宙の大法に随順して最終至善の極に到達す」ると共に、「心の奥底に潜伏する霊性を開発」することが「人生の最終目的」だと考えられている。すなわち、わたしたちの生きる世界を善なるものに極めていくことと、念仏によって心を耕すこととが、人生の両輪とされている。極めて近代的であるし、現代人にも親しみやすい世界観になっている。
山崎弁栄は、米粒に南無阿弥陀仏と書き込んだと言われるほど手先が器用で、書画なども多く残した。その書画を、近年活発に社会活動に従事するお寺を訪ねる時に、わたしはよく目にする。山崎の思想はこれまで浄土宗のメインストリームではなく、むしろ異端のような扱いを受けてきた節があるが、現実には近代以降の浄土宗の信仰のあり方に相当な影響をもたらしている。岩波文庫に収められたことを機に、再評価への機運が高まることを願う。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽