【宗教リテラシー向上委員会】 マイノリティの苦しみを知る 池口龍法 2018年9月1日
性的マイノリティ(LGBT)に対して「生産性がない」と言い放った国会議員の言葉が少し前に批判の的になった。その全文を読めば、当の言葉は税金の使途について語ったものであって、差別的な意図を含まなかったという酌量の余地はあるが、人間を生産性の有無という尺度で測って平然としているところに、そもそも心の貧しさを感じる。傷を負った当事者は少なくなかっただろう。
「生産性」の有無は、そんなにも大切なことなのだろうか。実際のところ、律にのっとって妻帯しない僧侶は、性的マイノリティと同じ意味において生産性がない。神父もまた同様である。また、わたしたち日本の僧侶は慣例として妻帯するけれども、お坊さんの読経は、物づくりに携わる人のように何かを産み出すわけではない。
無宗教を自認する人は、かの国会議員同様に「生産性がない」ことをたてにとり、「宗教は要らない」「葬式は要らない」とよく批判する。しかし、そのような批判が大勢を占めることはなく、お寺は参拝や観光でにぎわっている。すなわち、宗教は生産性に極めて乏しいにもかかわらず、日常としてビルトイン(内蔵)されている。思うに、生産性という尺度は、わたしたちの社会に必要かを考える上で、大した評価基準ではない。むしろ、生産性のないものをいかに大切にできるかが、社会の本当の豊かさではないか。
その豊かさを誇った時代の一つが、釈迦の生きたころのインドである。紀元前5世紀ごろ、インドには沙門(しゃもん)と言われる修行者が多数いた。釈迦もまたその一人である。釈迦が王族の跡取りの立場を捨てて求道生活に入ったように、沙門は出家主義をとり、ひたすら瞑想と苦行を行い、必要な食糧は村落をまわって托鉢することでまかなった。沙門が出現の背景にあるものは、祭祀の中心をになったバラモン階級の堕落だと言われるが、ガンジス川流域のインドが肥沃な地帯だったという事情も見逃せない。沙門はガンジス川のすねをかじって生きていたニート層でありながら、思想や宗教の面におけるリーダーとして評価され、王族や富豪からも帰依を受けた。
釈迦は、苦しみを知り、苦しみの生起するもとを知るようにと教え、そしてその苦しみを消滅させた先に解脱があると説いた(「スッタニパータ」)。この言葉に基づいて現代社会を生きるならば、つまらない尺度で人を裁くよりも、マイノリティが抱える苦しみに手を差し伸べていくべきだろう。また、お寺はその課題解決の場となっていくべきだろう。
性的マイノリティに関しての取り組みは、仏教界でも少しずつ増えてきており、今年3月には浄土宗からも『それぞれのかがやき:LGBTを知る』(浄土宗総合研究所)が発行された(Web上で全文閲覧が可能)。編集には浄土真宗僧侶や専門家らも加わっている。教団としてこの問題に向き合い始めたことは大きな一歩である。
ただし、課題は山積している。この本の中でも指摘されている通りであるが、仏式で行う結婚式や葬儀などの儀式においては、性的マイノリティの作法が定められていない。例えば、戒名の最後の2字は、男性なら「信士」、女性なら「信女」とするなど、男女の性別と結びついている。長年の慣例を改めて、この2字が虹色の輝きを放つものに変わるには時間がかかるだろう。
それでも釈迦の言葉どおりに苦しみのもとを探して一つずつ解決すれば、社会は確実に生きやすくなる。その飽くなきチャレンジこそ、現代における仏道なのだと思う。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽