【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 按手礼式で怒られた親 キョウカイグリーン 2019年4月1日
今年の1月に、所属教団の按手礼式が行われた。按手礼を受けると牧師は正教師となる。30代の牧師たちが按手礼を受ける姿は初々しくもあり、これからの活躍を祈りたくもなる。
さて、教団は按手礼を受ける牧師たちの一家をこの式に招く。すると、結構な数のちびっ子たちが集うのだ。按手礼式の最中、賛美の時も、説教の時も、走り回ったり、時に叫んだりする。親たちはなだめすかしたりもするが、静かにさせるのにひと苦労。そこに駆け寄った複数の牧師たちから、「静かにさせなさい! ちゃんとしつけをしなさい!」と親たちがきつく叱られていたらしい。
かの加藤常昭氏が絶賛していた本にE.H.ピーターソン著『牧会者の神学――祈り・聖書理解・霊的導き』(日本キリスト教団出版局)という本がある。この中で、ジャン・カルヴァンが、安息日を「祈りと遊び」で満たしていたことに触れると共に、著者自身の経験を次のように記している。「礼拝中、会衆とともにとりなしの祈りを祈った後で目を開けてみると、まだ小さかった私の息子がボールを追いかけて礼拝堂の中を這いながら横切っていく姿が見えた。私と会衆が祈っている間、彼はそのボールで遊んでいたのである。私は困惑した。しかし、後になって私は悔い改めた。神の栄光を現わすのに、彼の遊びが私たちの祈りより劣っているなどと、いったいだれに決めることができるだろうか?」(101頁)と。これを読んで以来、子どもが自由に遊ぶように、礼拝をしているだろうかと問われ続けている。幼い子どもたちはわたしにとって礼拝の教師なのだ。
按手礼式後、「私たちに居場所はないのですか」と親たちはへこんでいた。前述のピーターソンの著書からの影響もあって、私が按手礼式で主を礼拝する上では、この子どもたちはなくてはならない神からの贈りものだったことを感謝を込めて告げつつも、親たちの悲しみにしばらく耳を傾けた。
改めて、親たちを叱りつけた牧師たちのことを聞いて驚かされた。たまたまかもしれないが、独身で親族も近辺にいない中で宣教している牧師たちだった。妄想ではあるが、日々の生活の中で、小さな子どもが叫ぶように、叫びたい時もあるだろう。家族がいればわがままを言って、甘えられる時もあるがそうではない。「いい歳して子どものように叫んだら周囲から変な目で見られる。ダメだ。ダメだ。いつもちゃんとしてなきゃ!」と思っているそばで、子どもが叫んだら、怒鳴りたくもなるだろう。そんな語らいをしている中で、親たちも「叱ってきた気持ちが分かる気がしてきました」と心がほどけていった。
牧師に限らず、教会にはいろいろな人が集う。小さな子を育てている親子が来るし、独り身できちんと生きようとしている人もやって来る。それぞれ欠けがあり、改善の余地がある罪人ではある。しかし、どっちが正しくて、どっちが間違っているとは言いたくない。どちらも主に招かれているのだから、それぞれを同じくらい大切にするにはどうしたらいいのか、お互いが居場所を見出せるよう真剣勝負する必要がある。そうして、教会は、いろいろな違った部分を持ったキリストのからだとしてその実質を表わすことになる。
キョウカイグリーン
緑方定助(みどりかた・じ ょうすけ)地域のパパ友・ ママ友との交流が広く、日々育児日記をつづってい る育児系ブロガー牧師。何よりも 愛する家族を最優先し、困ったら一目散に逃げる。息子・承太郎といつも一緒。 武器:共感イヤー/必殺技:宣言アタック