【宗教リテラシー向上委員会】 令和、この国のかたち 波勢邦生 2019年4月11日
改元に伴い、生前退位、天皇制と元号の是非など教会内外で議論もあったが、「新元号」発表を期待して待った。理由は、暗く陰惨なニュースしか流れてこない昨今、何でも良いから「明るい話を聞きたい」から。または天気と同じで明日晴れたらいいな、と思わずにいられないからである。「ニッポンノミライ」に希望を持ちたい。時候のあいさつをSNSに書き込むような、漠とした願いがあった。
そして「令和」が発表された。厳冬明けの春のように、それぞれが豊かな人生を花咲かせてほしい、という万葉詩情あふれる名付けだ。失われた30年、猟奇事件と震災の数々を思えば無理からぬ命名である。その願いに応えてか、発表時SNSが賑わった。youtuberは大げさな動画を更新し、露わな肢体に「令和」と記した若い女性らが自撮りを投稿した。これでは咲いても徒花かもしれないが、これを許容できる時代だからこそ、平和が成ったとも言える。
新元号を発表する官房長官と首相を見ながら「花咲か爺さん」を思い出した。確かに童話のラストシーンのような百花繚乱、そんな春が来ることを願わずにはいられない。しかし、前提が忘れられていないだろうか。その前提とは、罪を犯した子犬のように、社会から排除され圧殺されてしまう人々に憐れみを示し、彼らを養育し、墓標を立てるほどに隣人となる正直な人々である。「花咲か爺さん」の詩情を支えるのは、老夫婦の数年にわたる具体的な憐れみの行為だ。この国に「花咲か爺さん」のような大人は残っているのか。むしろ「欲張り爺さん婆さん」ばかりではないのか。
政りの仕事は、立法・行政・司法において、人々の暮らしの基礎を守ることだ。祭りの仕事は、政治では扱えぬ問題、例えば「死後の生活」に手を添えることだ。政治にも宗教にも本来ならば「花咲か爺さん」の仕事が期待されている。
聖書には「草は枯れ 花はしぼむ 然ど われらの神のことばは永遠に立たん」(イザヤ書40:8=文語訳)とある。「花」という語は、レビヤタン、ベヒモスにならぶ、空想上の怪物ジズを含意する。また「しぼむ」と訳された語は「愚かである」という意味もある。「民は草」と直前にあるので、草は、市民・大衆と読める。すなわち、狂い咲く妄想ポピュリズムが怪獣のように社会を破壊してしまう。しかし、ネット大喜利を楽しむ多くの若者たちも、やがては枯れる日が来る。花開いた大人たちも遠からず愚かとなる。衆愚政治、栄枯盛衰の世情が滲む。
BBCは「令和」を「Order and Harmony」と英訳した。秩序と調和、図らずも明治以来の葛藤「主権とは何か」という問題、この国のかたちを浮き彫りにする翻訳だ。聖俗、諸外国、内なる自己との調和という問いに重なる。無論、「深窓の令嬢」など良い語例もある。字義を汲めば「よき平和」となろう。果たして「令和」日本は、どのような国となるだろう。「令和」の宗教は、後にどう評価されるだろうか。憐れみを選び、捨て犬ポチと殺されようとも、死して実を結んだ一粒の麦のように、神の言葉と共に立つと評価されるのか。または我執にとらわれた愚かな怪物となるのか。
宗教は国家よりも息が長い。だから民草の「詩情」に託された願いが花開き散りゆくまでを看取る余裕と「花咲か爺さん」の正直さが必要だ。徒花の散りゆくことの哀切と苦さを受けとめ、聞き祈る。美しき調和を願う「令和」時代、宗教の変わらぬ仕事である。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。