【映画評】 『幸福なラザロ』 ラザロとは誰か 2019年4月19日
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(ルカによる福音書16:31)
ラザロとは、本当のところ誰なのか。この問いこそ、本作を読み解く鍵になる。
夜闇の中、女たちの眠る部屋を見上げ、男たちが音楽を演奏し出す。先頭に立つ若い男の歌いあげるプロポーズを、目を覚ました女たちと演奏する男たちが見守る。裸電球の灯る室内へ迎えられなお演奏をつづける男たちの一人が、本作主人公である青年ラザロだ。イタリア語の朗らかな愛の歌声が響き渡る、古き良き農村の風習を撮る映像は濃密で、ロッセリーニやヴィスコンティなどイタリア映画黄金期ネオレアリズモのそれがもつ芳醇さに充ちている。ブレのない実直な眼差しをたたえる青年ラザロは純朴で人を疑うことを知らず、従順で頼まれ事は何であれ請け負うため、村人たちから都合よくこき使われる様が続いて映される。
村人はみな古色然とした農園の小作人であり、農園主である侯爵家の面々もまた中近世の古式ゆかしい風情を醸している。しかし侯爵婦人が「私は小作人を、小作人はラザロを搾取する」とつぶやいた瞬間から、物語のトーンはがらりと変わる。映像にそぐわない携帯電話が登場し、農園の外部が映画内部へ侵食し出す。
この侯爵夫人は実在し、事の露見後は詐欺罪で実刑を受けている。橋が流され農園が孤立したのを利用し、小作制度の廃止後も村人を騙し無給で働かせていたのだ。その報道に触れたアリーチェ・ロルヴァケル監督は、日常が突如崩壊した村人たちに着目し本作の構想へと至った。
物語は後半で、現代都市の真っ只中へ放逐された村人たちの様子を映しだす。バラック暮らしに適応し、小狡く浅ましい人間に変貌した彼らの元へ、若く農園での日々の記憶しか持たない姿で行方不明のラザロが現れる。正直者ラザロの身振りは忙しない現代人からあまりに遠く、しかしラザロの瞳にのみ映る光景は、しばしば周囲の人間に幸をもたらす。例えば誰の目からも見過ごされる線路脇の草むらに多くの食材を見いだして、バラック住人の狭隘な心を溶かしたりする。
そうして終盤へ近づくにつれ、映像表現は徐々に抽象度を高め始める。人間たちの目には見えない狼が都会のただなかを彷徨い、ラザロに寄り添う。音に誘われ大聖堂を訪れたラザロを、都市化に適応し排他的な素振りを身につけたシスターが追い払ったとき、パイプオルガンの響きがラザロを追って教会を捨て去るくだりは殊に象徴的だ。
南イタリア舞台のデビュー長編『天空のからだ』(2011年)でカトリックの堅信式に臨む少女を通し現代人の魂の孤立を描き、つづく『夏をゆく人々』(2014年)では北イタリア・トスカーナの養蜂農家を舞台に伝統と文明との衝突を描いた1982年生まれの俊英ロルヴァケル監督は、イタリア中部の僻村を舞台とする本作で都市と農村との対立を焦点化して、鮮やかな寓話へと昇華させた。
良心が示す道をブレなく歩むラザロは終盤、財産の私有をめぐり現代の風潮と真っ向から対立し、市井の人々から殴打され打擲される。居合わせた人々はこのときルカ書における金持ちそのものとなり、ラザロはラザロそのものとなる。その光景もまた、一匹の狼により見守られる。場をあとにした狼は淡々と都市の街路を走り抜けるが、誰の目にもそれは見えない。
ヴェーバーやパーソンズをひもとくまでもなく、近代的個人の心を占める合理や感情の損得勘定の底にはキリスト教倫理が根強く横たわり、アウグスティヌスやトマス・アクィナスらが築いたそれのさらなる古層から、建国神話における古代ローマの建設者ロムルスとレムスの双子を育てた狼の視線がこちらをなお見据える。「人間は獣と同じ。自由にすれば過酷な現実を知ることになるだけ。結局は苦しむ」と侯爵夫人はひとりごちる。現代人らしからぬ鷹揚な体躯を携えた正直者ラザロはいわば半人半獣の媒介者だ。人ならざる者の息吹によりラザロの眼差しを精確に貫かせ、今日の社会を逆照射してみせる監督ロルヴァケルの巧みさに、戦慄する。(ライター 藤本徹)
4月19日よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー。
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