【宗教リテラシー向上委員会】 春を告げる過越祭(ペサハ) 山森みか 2019年4月21日
大掃除の季節といえば日本では年末だが、私が住むイスラエルでは過越祭の前である。スーパーで掃除用品のセールが始まると、ああ春が来た、過越の休みだとうれしく思うが、そのうちにスーパーの棚から小麦粉製品が消え始め、完全になくなる前に買いだめしておかなくてはと焦る。
キリスト教のイースターは毎年「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる。一方でユダヤ教の過越祭は「ユダヤ暦ニサンの月の15日(満月)からの1週間」に定められている。これは西暦の3月末から4月に当たり、今年は4月19日の夜から始まる。「セデル」と呼ばれるこの夜の食事は儀式として重要な意味を持っており、一般の家庭に親戚や知人が大勢集まって夜中まで式次第に沿って食事をとるので準備もたいへんだ。イエスの最後の晩餐は過越の食事か、過越に近い日の食事であったと考えられている。
仮庵祭、七週の祭と共にユダヤ教の三大祭の一つに数えられるこの過越祭は、かつてエジプトで奴隷状態だったイスラエルの民がモーセに率いられて出エジプトを果たした際の出来事に基づいている。彼らは出発前に時間がなく、ふくらんでいない無酵母のパンを食べた。そのため過越の準備はまず大掃除をして家から酵母の入った食べ物、具体的には麦製品を一掃することから始まる。もちろんユダヤ教の規定をさほど守らない世俗派のユダヤ人たちは、過越だからといって買い置きのパスタなどを捨てたりはしないのだが、大掃除の習慣は広く共有されている。
過越の間に食される無酵母のパン(マッツァ)とは、日本語の語感ではチャパティのようなものが想像されがちだが、実際にはすこぶる固いクラッカーである。材料の粉は事前に水分を含まないよう厳重に管理されていたもので、発酵が始まらないよう18分以内に焼き始めなければならない。とにかく麦を使ったあらゆる製品が町のユダヤ系商店から消え、とうもろこしやじゃがいもの粉などを使ったパンやクッキーがその代用とされる。
この1週間にわたって喉に突き刺さるほど固くて食べにくい無酵母のパン以外に小麦粉や麦製品が手に入らないという状態は、30年ほど前は極めて不自由に感じられた。だが最近は小麦アレルギー、あるいは単に健康のために普段からグルテンフリーの食生活を送る人が増えてきて、代用品を作る技術も格段の進化を遂げた。また今では食生活が豊かになり、かつてほどパンやパスタといった炭水化物に食生活の多くを負っていないという事情もある。とはいえ属する派によっては麦のみならず米や豆も食べない人たちもいるし、ベーカリーなどは1週間休業するので、過越はやはり特別な期間である。
過越はユダヤ人にとって、かつて自分たちは異国で奴隷であり、またよるべなく荒野を放浪していたことを想起する機会である。放浪の民としての自己理解はユダヤ教の根幹であり、過越の半年後にある秋の仮庵祭では、荒野での天幕生活を思い出すために仮設の小屋を建ててそこで過ごす。寄留者に対するシンパシーはヘブライ語聖書において繰り返し述べられているが、そこにあるのは、後に約束の地に入って農業に従事する定住者となっても、かつて土地を持たない寄留者であった自らのルーツを忘れないという強い意志である。そしてそれは神殿崩壊後離散し、今なお離散の地にあるユダヤ人の間でも、また現在の国民国家イスラエルに住むユダヤ人の間でも、毎年繰り返し想起されるのであった。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。