【宗教リテラシー向上委員会】 スリランカ事件が突き付ける問い 波勢邦生 2019年6月1日
「スリランカ復活祭爆破(2019 Sri Lanka Easter bombings)」事件より1カ月を経た。さまざまな憶測と情報が行き交う中、少しずつ事件の全容が明らかになっている。外国人としては、スリランカ当局と各専門家からの綿密な調査報告を待つばかりだ。
今回の惨劇について「キリスト教 vs イスラム教」と安直に対立を煽る人々もいれば、スリランカ政府と仏教が結託していると言う人もある。立場によって事件そのものの印象が変わる。
だから、まず明確にしなくてはならない。そもそも「テロ」とは、政治目的のために暴力を行使することである。今回、その目的は、ニュージーランド「クライストチャーチ銃乱射事件への報復」だと報じられた。つまり2019年3月のモスク襲撃テロに対する教会爆破テロである。しかし、今回の犯行はそれ以前に計画されていたという指摘もある。
次に、どのような「宗教」もテロの加害者/被害者になり得る。非宗教的な人々も同様だ。テロは宗教が引き起こすものではなく「人間」が行うものだ。無宗教と自認する人間が多い日本でも、宗教とは関係ない無差別殺傷事件が発生している。
これらを踏まえた上で、ナセル永野さんによる前号本欄「ここが変だよ! スリランカ事件!!」に沿って、この件を考えたい。同コラム主旨を要約すれば、ナセルさんは、事件の第一報を聞いてスリランカ国内事情から仏教過激派の犯行を疑った。なぜならムスリム自身として考えるとき、犯行日時など腑に落ちない点があるからだ。しかし、イスラム過激派の犯行と発表された。ナセルさんは残る違和感を、在日ムスリムや改宗日本人が、常日頃感じている「生き難さ」に重ねて、「ムスリム=テロ」という固定観念から脱却することを訴えた。
ナセルさんは「残念ながら今回の事件の真実が明らかになる日は来ない」という。日本では少数派のキリスト教徒(人口比1%未満)よりも、さらに少ない超マイノリティ「ムスリム」の実感、肌触りである。大々的に「加害者」として報じられるムスリムに対して、事件後、モスクが焼かれ私刑が発生している「被害者」としてのムスリムは、あまり報じられないことへの違和感の表明である。平和を愛するムスリムであるがゆえの、忸怩たる思いがにじむ。
繰り返しになるが、どの宗教に属していても、属していなくてもテロの標的になり得る。誰もが可能な被害者であり加害者である。言うまでもなく、多くの読者がそうであるように、あらゆる暴力には反対である。しかし、現実には、世界は有形無形の暴力に満ちている。国家もまた暴力装置である。言い換えれば、どの暴力なら合法的なのか、誰の暴力なら許容できるのか、が問われている。
多くの人々にとって、この物言いは共感も理解もできないだろう。しかし、憎み合う必要も、殺し合う必要もないのだ。テロリズムへの選択と、そうしない人々との違いがここにある。
共感は無理、理解はできないかもしれない。しかし、互いの生存を認め、最低限の互恵的関係を維持するために可能な距離を模索すること。これに失敗する時、あらゆる暴力が加速する。そして、宗教は加速を倍加することもあれば、それを食い止める最後の砦となることもある。
例えば、多くのキリスト教徒にとって、スリランカ復活祭の惨劇は「それでも敵を赦し愛するか」という究極的な問いとならざるを得ない。近代社会と宗教の相克の狭間で、信仰が軋んでいる。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。