【宗教リテラシー向上委員会】 「かけがえのない存在」認める覚悟 池口龍法 2019年7月1日
5月28日、川崎市で児童ら20人が殺傷されるという痛ましい事件があった。自殺した容疑者に対して、お笑いタレントの松本人志は「不良品」と言った。「人間が生まれてくる中で不良品が何万個に1個含まれてしまうのは仕方がない」との意図からである。この発言に対して、お茶の間からは「差別発言だ」などと批判があがり、SNS上では賛否をめぐり意見が飛び交った。
「不良品」のようなたぐいの発言を叩くのはたやすいが、事件を起こしかねないような人たちと本当に向き合うのは果てしなく怖い。おそらくは大多数の人も同じだろう。しかし、対話を重ねているわけでもないのに――むしろ対話を怠っているがゆえに――誰もが「オンリーワン」だという主張が通る。そして、そのような空気感に、仏教思想も例外なく流されている。
釈迦は生まれてすぐ7歩歩き「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言った。「天の上にも天の下にもただ我のみひとり尊し」というこの言葉の意味を、私が子どものころは「お釈迦さまこそ最強」だと習い、釈迦を仰ぎ見るように拝んだものだった。「天上天下唯我独尊」は、暴走族の特攻服によく刺繍される。この場合にはもちろん釈迦を讃えるのではなく「俺こそ最強」という意味である。しかし、わずか30年でこの言葉の解釈がまるで変わった。今では「誰もがかけがえのない存在」という多様性を容認するメッセージだと習う。これには暴走族も面食らっているに違いない。
また、一人ひとりが「オンリーワン」であることは、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』に見られる仏性思想をベースにして語られることもある。「仏性」とはブッダになれる資質を言う。経典には「一切衆生悉有仏性」とあるから、あらゆる人々はみな等しくホトケの卵だということだ。すなわち「誰もがかけがえのない存在」という先のメッセージと重なる。
私は半年前から自坊で『大般涅槃経』についての講座を持っており、そのために全36巻(漢文書き下しにして千百ページ以上)を通読した。仏性思想がこの経典の中核をなすメッセージの一つであるのは間違いない。だが、あらゆる人々に仏性があることを正しく観察できるのは、あくまでブッダだけであるという。よほど修行した人でも仏性をちょっと垣間見られる程度だし、私たち凡人にはとても理解できることではないと、口酸っぱく語られている。
要するに、日常生活において身近な相手を正しく「オンリーワン」と認めることは、凡人にとってはほとんど不可能である。自分よりも経済的に恵まれている人、社会で成功した人を前にすると、「たのしい」よりも「ねたましい」が先に立つ。それでも心をぐっとこらえて、他者の幸せを「たのしい」と喜ぶには相当の胆力がいるし、仏道修行を重ねる意味もある。
本コラムだってそうだ。私自身、仏教についてさえ、知識はしょせん限られている。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教についてはなおさらである。初詣に神社に行き、お盆には仏壇に手を合わせ、結婚式は教会で行うぐらいの節操のなさを多様性と語るのは簡単だ。しかし、さまざまな宗教の違いを超えてお互いの世界観を楽しむためには、ストイックに学び続ける覚悟がいる。そのように痛感しながら執筆している私としては、「多様性の尊重」という言葉に支配される今だからこそ、その地平線を求めるために、あえて「修行の旅を一緒に続けましょう」と厳しい言葉で皆さんを誘いたい。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽