【宗教リテラシー向上委員会】 共存するための住み分け 山森みか 2019年8月1日
私は基本的に、さまざまな属性の人々が共存する社会が好ましいと考えている。一つの価値観だけに支配された社会よりもその方が活気があり、自由な発想が促され、ひいては生活の質を向上させるからである。
私が住むイスラエルはユダヤ人がマジョリティであるが、複数の宗教や民族に属する人々がモザイク状に住んでいる。だがここに住んでいると、自分が属するコミュニティによって居住地が異なっていることがよく分かる。居住地が異なるということは、子どもたちが通う学校も、ふだん買い物をする店も異なるということだ。それはなぜか。
まず、属する宗教によって暦が違う。今日の世界においてはグレゴリオ暦が主流だが、イスラム教やユダヤ教に属する人々はそれぞれ自分たちの暦によって生活している。何曜日を休日にするかもそれぞれ異なるし、学校や職場での休日や祝祭日が問題になる。日本のように一律に日曜日を休みとするわけにはいかない。
次に、使用言語である。イスラエルにおける公用語はヘブライ語とアラビア語だが、教育言語をどちらにするのか。また必修の宗教の時間や、それぞれの宗教によって異なる食物規定の問題もある。
さらにまた、同じ宗教に属しているからといって同じ地域に暮らせるわけではない。例えばユダヤ教の超正統派の人々は厳格に安息日を守るので、ユダヤ教世俗派の人たちが安息日に自動車に乗ることが許せない。また、彼らにとっては女性が長袖に長いスカートを身に着けていないのは看過できない逸脱だし、LGBTの存在などとんでもないのである。しかしそのような人々がいるからといって、世俗派の人々が安息日に移動したり、半袖やミニスカートを着るのをあきらめる筋合いはないし、LGBTの人たちが圧迫されてはならないのも当然である。これらは生における思想信条の大原則に関わることであり、寛容や歩み寄りによって妥協点が見出せる問題ではない。するといきおい住み分けるしかないという結論になる。
このゾーニングがはっきり見られる場所の一つは海水浴用のビーチである。一般のビーチとは別に、女性専用ビーチ、LGBT専用ビーチ、犬専用ビーチなどが区切られているのだがなかなか分かりにくく、もちろんあらゆる人が平等に海水浴を楽しむ権利はあるとはいえ、いったいどこまで細分化されるのだろうという疑問が生じる。
ビーチならまだしも、あらゆる場所を細かくゾーニングするわけにはいかず、多くの場合マジョリティが原則を決めているのも事実である。そして、マイノリティに対するある種の「配慮」が限定的解決に用いられる場合もある。例えば私が勤務するテルアビブ大学はユダヤ教の暦に従い、ヘブライ語で授業を行っている組織である。よってキリスト教の祭日もイスラム教の祭日も平日扱いなのだが、その時期になると大学から「学生が自分の宗教の祝祭日に休んでも欠席とカウントしないように」というメールが回ってくる。欠席扱いしないからといって特に休んだ分の補習がなされるわけではないので、その学生が不利であることには変わりはないのだけれど。
多様性のある社会の運営維持のためには実際多くの問題が生じ、配慮で解決できることと互いに譲れないことがある。日本も今後この種の問題に直面していくだろうが、互いに譲歩できない点は一律に強引な解決を図るのではなく、トラブルをできるだけ少なくする方向が望ましいと思う。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。