【映画】 ひびきあう風車の自然 『風をつかまえた少年』 主人公のモデル ウィリアム・カムクワンバさんインタビュー
〝知は力なり〟
アフリカの内陸国マラウイを襲った飢饉の最中、貧困から通学を断念した少年が図書室で独学し、風車式ポンプを完成させて村を救う。人口のわずか2%しか電気を使えず、中等教育の就学率は15%に留まる国で、「知識は力である」というラテン語の格言”scientia est potentia”を地で行く少年の名は、ウィリアム・カムクワンバ。
彼が自身の体験を書いた著書『風をつかまえた少年』は世界各国で翻訳され、2013年には米誌タイムの「世界を変える30人」に選出される。さらにはそれを読んで揺さぶられた、大英国勲章をもつアフリカ系英国人の名優キウェテル・イジョフォーの初監督作として映画化へと至る。マラウイでロケ撮影が行われるなど、映画『風をつかまえた少年』は極めて意欲的な仕上がりとなっている。
本作の日本公開にあわせ来日したカムクワンバさんに、物語の背景や自身の想いを聞いた。
――まずご家族のお話からうかがいます。原作では、問題を起こして拘置所に入れられたお父様が、教会で執事も務める主任検事の勧めにより信仰へ入る場面があります。映画ではキウェテル・イジョフォー監督自身がお父様を熱演されていますが、実際のお父様とはどのような違いを感じられますか。
実際の父は思慮深い人物で、映画のように思い立ったらすぐ行動や言葉に出るタイプではありません。毎日曜日には教会へ赴き、食事の前には祈りを捧げる敬虔さを私も受け継いでいると思います。
――原作ではお祖母様をめぐる描写も印象的でした。カムクワンバさんに与えた影響も大きいように感じるのですが、いかがでしょうか。
祖母は、自分でイエスと思ったことについては周囲がノーと言っても受け入れない、意志の強い性格の持ち主でした。そうですね、正しいと感じることについては躊躇のないあたり、確かに受け継いでいるのかもしれません(笑)。
――風車をつくる過程で、周囲の人々やお父様にまで邪険にされる中でカムクワンバさんを支えた友人のギルバートさんは、映画ではムスリムとして描かれています。実際にもイスラム教は身近なのでしょうか。また映画では「チェワの誇り」ということが幾度か強調されますが、異なる民族との関係はどのようなものでしょうか。
はい、映画とは異なり、実際はギルバートの父親やがムスリムです。幸運なことに、マラウイでは異なる宗教コミュニティ間でもお互い何か行事があれば誘い合うし、困難があれば助け合う関係が保たれていますね。
また私自身は、父がチェワ族の出身で、母がヤオ族出身のハーフです。私はチェワ族の地域で育ったので、仰るようにチェワに誇りを感じていますが、それは異なる民族や集団への軽視を意味せず、お互いに尊敬し合える姿勢であることへの誇りとも言い換えられる種のものです。チェワには平和を尊ぶ気風があるのですよ。
――カムクワンバさんは、風車の製作が地元NGOの目に留まったことから注目を集め、米国への奨学金を得ると共に国際イベントや会議などで各国へ招聘され、ご自身の目で世界を見渡す機会を得ました。昨今ムスリム移民への不寛容などが目立つトランプ政権をはじめ、国際社会の右傾化の流れについてどのようにお感じですか。
まず、社会のリーダーが人々の分断を率先して推進するのは、とても良くない徴候ですね。不必要な緊張や対立が広がってしまう。自分の信じるものや守りたいものが、他人にとってのそれと合わないということは当然ある。その差異を受け入れる姿勢は大事です。
まず自分自身が、他人の信じるものをリスペクトする姿勢をもつこと。それによってこそ、自分の信じるものを他人に受け入れてもらえる素地は実現されると、私は信じています。正しさについても同じことが言えますね。
――映画では全編にわたり、伝統舞踊グレワンクールの踊り手たちによる幻想的なシーンが幾度も挿入されます。呪術的世界観が支配的で、科学的思考よりも優先されるムードは原作でもたびたび強調されますが、こうした自然崇拝的な文化風習について今はどのようにお考えでしょうか。
まず、グレワンクールは「宗教」ではありません。村に古くからある文化的なもので、若者たちが大人になるための、いわばチェワ族に伝承されるイニシエーションの儀式でした。これを体得することを通して、若者は長老たちへのリスペクトを学び、大人になってゆく習慣のようなものです。
ところがキリスト教が入ってきて、グレワンクールもまた「宗教」と定義づけられるようになり、ひいては悪しき異教と見なされるようになってしまいました。本来はもっと総体的なものなのです。
――ご自身でも踊られるのですか。
グレワンクールをですか(笑)。いいえ、私はクリスチャンの家庭に育ったので、覚えることはありませんでした。踊りに限らず、父はチェワの伝統習俗を習うことを許しませんでした。また教会も、そのようなものに対し否定的でした。
――原作を読んで最も美しいと感じたのは、風車を作った後アメリカへ渡り、イベントの見学でラスベガスを訪れた場面でした。絢爛としたネオンに溢れる街の中で、ふと故郷の緑の畑が想い起こされるくだりです。海外にあってマラウイの村が想起されることはよく起こるのでしょうか。
はい。いつどこにいても、故郷のことが私の胸から離れることはありません。村の人々のために何ができるかをいつも考え巡らせながら暮らしています。
――最後に、日本の観客のみなさんへ伝えたいメッセージがあればお聞かせください。
希望をもつことの大切さを忘れずにいてほしいです。厳しい状況の中でも、何かできることは必ずあると信じることを、みなさんもどうか大事にしてください。
――ありがとうございました。
さて、映画『風をつかまえた少年』においてキウェテル・イジョフォー監督は、グレワンクールの踊り手たちを最大限に活かす演出を施した。日本で言えば男鹿の「なまはげ」のような仮面と藁をかぶった彼らは、映画の開幕と終幕に登場するだけではない。普通に観るだけでは気づきにくいかもしれないのであえて指摘しておけば、村に異変が起こる場面では数秒ずつと短いながら決まって姿を現している。豪雨、洪水、干魃、飢饉、森林伐採。多くは自然災害だが、言うまでもなく伐採は人の手で行われる。洪水の原因となるリスクを侵しても、目先の金銭目当てに木を伐る村人たちの営みを、遠くから仮面姿の男がひとり眺める。カムクワンバ少年だけがそれに気づく。
「知は力なり」という格言は、英国の哲学者フランシス・ベーコンに由来する。ベーコンの叙述においてこの言葉が初めに現れるのは、1597年の随想『聖なる瞑想。異端の論について』”Meditationes Sacræ. De Hæresibus”であるという。ベーコンは記す。自然の下僕である人間は、自然の現象に対する事実として観測した分だけを理解可能、実行可能だと。それゆえ人間ができる唯一のことは、自然の力をまとめたり、分解したりすることだけだと(フランシス・ベーコン 著/桂寿一 訳『ノヴム・オルガヌム――新機関』岩波文庫)。
目に見える風となり、そこへ息づく者の佇まい。村でたったひとり科学の力を信じた少年だけが、精霊のごときその実在を直視するという逆説。ここに、ノンフィクションであるカムクワンバ原作を、一篇の絵物語へと昇華させたキウェテル・イジョフォーの、初監督作とは思えない巧さがある。奴隷船での反乱を描く『アミスタッド』でハリウッド映画界にデビューし、奴隷の身からの解放を描く主演作『それでも夜は明ける』で数々の映画賞に輝いたイジョフォーの本作における視線は、「風車」という言葉すら存在しなかった村のルーツを断ち切ることなく未来を眼差す、カムクワンバのそれに重なる。(ライター 藤本徹、撮影 鈴木ヨシアキ)
8月2日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館他全国順次公開。
監督・脚本・出演:キウェテル・イジョフォー
出演:マックスウェル・シンバ、アイサ・マイガ
原作:「風をつかまえた少年」ウィリアム・カムクワンバ、ブライアン・ミーラー著(文藝春秋刊)
提供:アスミック・エース、ロングライド
配給:ロングライド
公式サイト:https://longride.jp/kaze/
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