「神学論争」をどう乗り越える? 大頭眞一×久保木聡トークショー「焚き火の森が火事?」レポート 2019年9月1日

 「神学論争」という言葉が水掛け論と揶揄される昨今。聖書の捉え方や主張する神学が異なる人たちと関係を築く時、どのようにしたら「炎上(喧嘩)」を防ぎつつ、対立を乗り越え、互いの主張を尊重し合えるのか。

 近年、特に福音派内で議論の的になっている「聖書信仰」において無誤派と無謬派の対立に解決策を見出そうと、本紙連載の筆者である大頭眞一氏と、日本ナザレン教団鹿児島キリスト教会牧師の久保木聡氏=写真左=が7月22日、聖契神学校(東京都目黒区)を会場にトークショー「焚き火の森が火事ジャー」を開催した。

 「焚き火」とは、焚き火を囲むようにさまざまな神学を語り合う、雑誌『舟の右側』(地引網出版)の連載「焚き火を囲んで聴く神の物語」から派生した言葉。

さまざまな神学が語られる「焚き火の森」で、
論争(炎上)に発展してしまった場合、
どのようにしたら対立を解消(火消し)できるのか。

 国内の福音派内では、戦後の保守的な聖書観に立つ米国宣教師たちによる宣教の影響もあり、比較的、無誤の考えが浸透している。しかし、2015年、藤本満氏が現代日本の福音派の聖書観のルーツを歴史的に検証した『聖書信仰』を著したことで、近年この聖書論をめぐる議論が活発になっている。

 まず、久保木氏が聖書信仰における二つの考え「無誤」と「無謬」について解説。福音派は概ね「聖書は誤りなき神の言葉、信仰と生活の唯一の基準」という共通の聖書理解に立っているものの、聖書を歴史的、科学的に誤りがなく、意図された唯一の意味があると命題的に読む「無誤」派と、聖書には時代的文化的制限があるとする「無謬」派に分けられるとした。

 大頭氏は「歴史的には、意外なことに無誤の考えの方が新しい。無誤は近代になって、科学が発展し物事を理性的、論理的に証明しなくてはならないというマインドが現れたことによって、理性や無神論から聖書や信仰を守るために生まれた防波堤のような考え」であり、良い動機から生まれたものであると説明。

 しかし科学が発展し、聖書の記述とつじつまが合わない事柄が出てくる中、それでも聖書には誤りがないと言い続けることは、「防波堤だったものが、人々が神の命に入る上での防壁、妨げになってしまっているのでは」と指摘し、物事には両面があり、どちらかが正しく、どちらかが悪いという考えは間違っており、動機は限りなく善であるとした。

 その上で、両者の間に溝があることについて久保木氏は、「神学的な論争をしている中で、相手にわからずやとレッテルを貼ることで、その人の人間味が見えなくなり、争いが激化することがあるのではないか」と問い、その解決策の一つとして「非暴力コミュニケーション」を提唱した、米国の心理学者カール・ロジャーズの弟子にあたるマーシャル・B・ローゼンバーグの「和解をしたければ相手の考えを聞くな」という言葉を紹介。

 「考えを聞くことは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという枠組みになりやすく、つながりを喪失しやすい。論争するよりも、相手の感情や、大事にしたい気持ちにフォーカスを当て、寄り添い、関係性を築く方がよい」と解説した。また、「神学」と「分かち合わずにいられない関係性」は車の両輪のようなものであり、二つがあってこそ、「キリストの身体なる教会は前進していくのではないか」と語った。

 最後に大頭氏は応答として、「正しさで相手をねじ伏せるために議論をするのでは、もはやキリスト教神学の議論ではない。それぞれに役目があることを信じるなら、異なる意見の者が教会に必要であり、誠意を尽くして寄り添い、補っていけばよい。神学議論は教会を立て上げるためのもの」と語った。

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