【空想神学読本・特別版】 責任世代の貴方に 『X-MEN:ダークフェニックス』BD&DVD発売記念対談 2019年9月25日
「X-MEN」シリーズ最新作『X-MEN:ダーク・フェニックス』のブルーレイ&DVDが、20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンより10月9日に発売される。アメリカの世相とともに歩んだ大人気シリーズも、本作で最終章。ソフト化を前に、キリスト新聞が若き論客・竹屋淡二氏とタッグを組み、その魅力を語り尽くす。「公民権運動」から「ポリティカル・コレクトネス」の時代へ。ヒーローの先にある「弱者の解放」「神格化」「責任の先」とは? ハリウッド映画から人類の課題を読み解く特別企画!
波勢邦生(キリスト新聞社) 本紙で竹屋さんにお話をうかがうのは初めてです。まずは自己紹介を。
竹屋淡二 はじめまして、竹屋です。大学で選んだ専攻テーマが宗教哲学だったこともあり、こうしてキリスト新聞さんから声を掛けていただいたことには不思議なご縁を感じています。今回は『X-MEN』についての対談ということですが。
波勢 言わずと知れたアメコミ映画の金字塔ですが、やはり宗教という共通の背景から迫りたいと考えています。早速ですが、本作『X-MEN ダーク・フェニックス』をご覧になって、いかがでしたか。
竹屋 まず断っておきたいのですが、『X-MEN』はこれまでに旧シリーズや、スピンオフの『ウルヴァリン』『デッドプール』あたりこそ観ましたが、原作の熱心なフリークというわけではないんです。本来は、作品世界全体を再履修してから鑑賞に臨むべきなのでしょうが…。それでもシリーズ最終章と銘打たれた本作の公開に、居ても立っても居られなくなりましたね。
ジーンの自己実現物語…?
竹屋 本作の鑑賞に際しては、「フェニックスことジーンの立ち位置を見誤らない」という態度が要請されるのだろうと思います。彼女は本作のヴィラン(悪の側)ですが、同時に「X-MEN」でもあり続ける。だから観客には、彼女の怒りや悲しみへの共感が求められている。少なくとも一人一人の観客は、そう身構えて観始めているはずです。
波勢 たしかに、プロモーションムービーの段階から、自然とそのような態度になっていました。
竹屋 とはいえ、観客がジーンに感情移入するためには、彼女のトラウマやコンプレックス、その抑圧が露わになり、それらと向き合いながら乗り越え成長するという、ある種の約束が示されなくてはならない。その意味で本作のジーンは、暗い過去が明らかになり、超能力が制御不能なほど増大し、周囲との隔たりが生じるなど、境遇としては同情すべきところの多い人物です。しかし同時に、感情移入できないほどに感情的な女性として描かれている。
波勢 彼女が父親に会いに行く場面なんかでは、置いてけぼりになりましたね。「えっ…? 子どものキレ方じゃん…」っていう。
竹屋 育ての親・プロフェサーXことエグゼビアに問答無用でブチギレてスクールを飛び出し、死別したはずの父と涙の再会を果たすも「なんで私の写真がないの!?」と激昂する場面ですよね。しかもこの場面の後、メインキャラクターであるミスティークことレイブンをあっけなく殺害してしまい、「もう放っておいてよ!」とまた逃げ出す。かといって女一匹野良ミュータントにもなれず、今度はライバル側のマグニートーことエリックのキャンプで匿ってもらおうとする。ところが事情を尋ねられると、また暴発寸前に。トラブルを持ち込まれたエリックが「出ていけ!」というのも当然です。対してジーンは「あんたなら助けてくれると思ったのに!」とまたキレる。
波勢 悩んで自暴自棄になること自体はわかるんですけどね。過剰に「キレる」姿を見せられて、なんか、ついて行けないな、と。
竹屋 ジーン・グレイ25歳、とにかく面倒くさい人です。もちろん、すべての一般人類は多かれ少なかれ直情的な、面倒くさい生き物です。しかし本作のジーン描写は、「自立しない」「男性依存的な」「女性」の徹底的な誇張です。言いかえれば、「そのような誇張によって逆説的に女性性を描写する」という悪趣味な演出が採用されている。
波勢 「もう子どもじゃない」「女が男を救ってばかり、X-WOMENに改名しろ」といった台詞も印象的でした。あれも思い返せばツッコミ待ちですよね。
竹屋 ようやくこのあたりで私たちは、最初に携えた「ジーンの怒りや悲しみへの共感」という鑑賞態度が的外れだったと気づかされる。共感や同情の余地なんてそれほどないのではないか?と。安直ですが、『AKIRA』を思い出します。
波勢 東京五輪2020を予言した!と話題になった作品ですね。第三次世界大戦後、2019年ネオ東京を舞台に、超能力を得た子どもたちが暴走する顛末の物語。映画版の鉄雄が顕著ですが、可哀想なはずなのに今一つ同情できないんですよね。
竹屋 いま「同情」という言葉を使いましたが、そのような情動を観客に期待する映画というのは、子どもなり女性なり、分かりやすい「弱者」を立てる傾向にあるのかもしれません。とりわけ女性を主人公としてその心模様を描く、というプロットは、近年の海外発大衆映画のスタンダードです。『バンブルビー』『キャプテン・マーベル』『M.I.B.インターナショナル』など、数々の先例に続けと、本作もまた女性が主役の物語です。しかし本作では、ジーンは「女性」という共通項を保持し、それを誇張され続けながらも、他の作品群のキャラクターとは比べ物にならないくらい未熟な人間として描かれている。女性と未熟さが安易に紐づけられるような配置は、近年の流行を考えるとなかなかに挑戦的だというわけです。
波勢 たしかに2019年の映画としては色々と引っ掛かりますね。ポリティカルな意図なしには、こんな脚本にはならない。実際、ジーンをもう少し筋の通る、感情移入可能な人物に仕立て上げてもおかしくなかったですよね。
竹屋 当然そうできたはずです。にもかかわらず、なぜそうしなかったのか。そこに制作陣の気概を感じずにはいられません。ともすればポリティカル・コレクトネスを意識しがちな近年の映画の制作環境に、一石を投じる意図があったように見える。つまり、本作は先行作品に対するアンサーなのです。主人公が女性でさえあれば、その人がどんな描かれ方をしても、お話がどんな展開でもいいのかい?という。
弱者解放の夢
波勢 話題が変わりますが、『X-MEN』が少なくとも映画シリーズで描いてきたことは、言うまでもなく、「抑圧された者たちにも人権や能力がある」という主題でした。ノーマルな人々、特殊なミュータント、彼らを都合よく支配しようとする政治的意思=政府、または反政府的運動=テロが重なりあって、登場人物それぞれが立ち位置、役割を見出すところに面白さがあった。キリスト教神学の用語でいうと「解放の神学」です。社会の中で、弱いとされた人々、抑圧された人々の目線から立ち上がる、起き上がる思想です。
竹屋 「解放の神学」は議論のフロントラインですよね。
波勢 もちろん「解放の神学」については、登場以来、議論百出です。日本でも賀川豊彦(1888-1960)に関する毀誉褒貶をみれば、想像に難くない。というのも、社会的格差、貧困、科学と宗教、政治と技術など、かなり広範な問題系が「解放の神学」に含まれているので、評価が難しい。現在ではかなり肯定的に捉える向きとなっていますが。この流れで見ると、『X-MEN』は、遺伝子に関する技術や、技術による格差是正という問題まで射程に含んでいるようにも捉えられます。
竹屋 とはいえ、主題がそれだけに向かうと、説教臭くなってしまう。だから彼らの解放の物語は、「世界を救う」というわかりやすい目的をバーターにしていた。ヒーローになることと解放がイコールで結ばれていたわけです。社会状況に呼応した、治安維持のための戦い。それだけでは汲み尽くせない弱者・被抑圧者の実存、その変革を求める戦い、結果としての代償。2時間映画の枠でこれらをパッケージにする、という確かな方針があったからこそ、映画『X-MEN』シリーズはスリリングで痛快な物語を紡いできたと思うんですよね。
波勢 その二つのどちらか一つでも欠けると「『X-MEN』らしさ」は薄れてしまうのでしょうね。
竹屋 本作への批判としてはなかなかクリティカルだと思いますよ、それは(笑)
手に負えない女は「神」になる、手に負えない展開には「神」を出す
竹屋 ともかくも地雷少女ジーンをめぐって物語が動きます。ジーンの能力を欲しがる謎の異星人、レイブンの敵討ちに燃えるビーストことハンクとエリック陣営、ジーンを生かして連れ帰りたいX-MEN。三つ巴の大抗争です。ミュータントの市民権を勝ち取ることに腐心してきたはずのエグゼビアまでをも巻き込んで、死傷者続出必至のドンパチをやらかしている。
どんな困難があっても最終的には公共の秩序を回復し、それによってX-MENはヒーローとして承認される、というのがこれまでのシリーズでした。しかし本作では一人の地雷少女のために大勢の一般市民を巻き添えにして、しかもそれはどうやっても埋め合わせできそうにない。かつての設定は忘れ去られています。ここからどのような大団円に転んだとしても、元の路線に戻るのは不可能です。
波勢 彼らが巨悪を倒して名誉挽回するならば、ストーリーとしては分かりやすいんですけれどね。その意味で、本作の宇宙人勢力は役者不足でした。べらぼうに強いのに、「人類共通の敵」という感じがしない。
竹屋 その渦中で、ジーンはエグゼビアから呼びかけられて、コロッと心を変えています。赦しを請う育ての父に対して、娘が大らかにも心を開くというわけです。この場面を境に、物語は全く異質なものに変わってしまう。どう好意的に見ても、市街地を破壊して、レイブンまで殺してしまったジーンは許しを請う立場のはずです。それは許されない程度に、埋め合わせが不可能なほどに重い問題です。レイブンはジーンにとってもX-MENにとっても、文字通り家族だったから。しかし、そんな失態もすっかり帳消しになって、聖母のような包容力で以て「赦す」ジーン、という存在だけが前景化する。
波勢 展開についていけなかった理由が分かってきました。あの場面のあとから、ジーンは謎の宇宙的パワーに覚醒して、超サイヤ人みたいになりますよね。正直、笑ってしまいました。あれ?『X-MEN』って、こんな話だったっけ?と。
竹屋 ジーン一人だけ罪責の連鎖から解放されて、残ったのは強大かつ自由に行使できる力だけですからね。「聖母」というのもまだ甘いかもしれない。すべてを赦すと同時に全面的に免責された存在になるのだから、これは俗っぽく「神」とすら言えてしまう。事実、ジーン自身が、高次元の概念に「進化」したと告白している。『ウォッチメン』のドクター・マンハッタンにも通じるところがあります。
波勢 覚醒したジーンの戦闘力は超サイヤ人みたいになっているし、精神も達観していて、確かに神に近づいていますね。結局最後には生身の姿すら要らなくなって。観ながら思わず、「まどマギかよ!」とツッコミました。言われてみるとジーンの覚醒は、貧農の少女からイエスの母となり、やがて「神の母」とされ、のちに事実上神にも等しくなる「無原罪・被昇天の聖母マリア」にも似ている。つまり、ジーンもマリアも、免責された、無誤無謬なものとみなされた末に、脱身体化しています。このように見るとジーンとX-MENとの関係は、聖母マリアと使徒継承する教会の関係に見えなくもない。
竹屋 ジーンが生身のままX-MENに帰投して、レイブンの墓の前で涙し謝罪する、というエンディングもあり得たはずです。しかし、そうするには彼女は、あまりにも手に負えない存在になってしまった。レイブンを殺してしまった時点でそうだったのでしょう。だから、製作側は敢えてジーンの責を問うことすら諦めてしまった。
「責任」の先で
波勢 これは、おそらくキリスト教に限らず、宗教全般にとって、アクチュアルな問題です。つまり、弱者、被抑圧者、被害者——ポリティカル・コレクトネスの運動が露わにしてきた人々——の神格化という問題です。そして『ダーク・フェニックス』でも、ジーンの成長は「神化」の如く描かれています。とはいえ、それは社会との共存と自己実現という選択からは、遠く離れてしまっている。むしろ「生身の人間」として、自分の内なる力や、それに付帯する責務に悩むのであれば、「ああ、俺たちの知っている『X-MEN』だ」と安心して観ていられたのでしょうが。
竹屋 「許す/赦す」ことと「免責される」こと。この二つが絡み合った結果、ジーンはX-MENユニバースを見守る、文字通りの不死鳥になってしまった。 「大いなる力には大いなる責任が伴う」、今やマーベルヒーローたちにしっかりと刻みつけられた文言です。しかし現実の問題として、責任を負えなくなってしまったり、責任を負うことを諦めてしまったりするとき、ヒーローたちはどうなってしまうのか。あるいは、弱者が免責されたまま最強となるとき、その暴力性はどうなるのか。本作が投げかけうる問いを汲むならば、この二つだと思います。「それでは地球外にパージすればいい」というのが制作側の回答でしょうが、本当にそれでいいのか。
波勢 『ダーク・フェニックス』を観た後、実は「X-MEN、好きだったのにな…」と落ち込みました。しかし、このように捉え返してみると感想も違ってくる。各ミュータントの実存を歴史的事件に絡めて描いてきたシリーズが、最終回において扱ったテーマが「責任の先」というのは、新鮮ですね。
竹屋 ノーマルな私たちにとって、社会に対する責任=シチズンシップをわざわざ意識する機会はそれほど多くない。しかしヒーローたちは、まさにヒーローであるがゆえに、「大いなる責任」を果たすことでシチズンシップを獲得してきたはずです。彼らが責任を引き受けることを終えるとき、「市民」としても終わるのです。
波勢 公民権運動を主導したキング牧師を思い出します。彼の運動は、キリスト教にとどまらない、生身で等身大の人間の思想と実践でした。その意味で『X-MEN』シリーズもまた、そもそも一つの実践だったのかもしれません。シチズンシップの獲得という実践です。ところが『ダーク・フェニックス』は、ヒーローの持つ多義性やヒーローの「終わり」をネガティブに浮き上がらせることで、この実践にエクスキューズを投げかけた。凶弾に倒れたキング牧師や、これまでのX-MENたちが想像もしていなかったような「責任の先」で、ヒーローたちはどのように振舞うことになるのか。
竹屋 商業的に成功したヒーロームービーをどのようにして終わらせるのか。若く強く魅力にあふれたキャラクターたち自身は、どのように引退するべきか。フィルムの外と内のこの二つの「終わり」が合流する地点こそ、『ダーク・フェニックス』だったのかもしれません。本作で描かれた皮肉な終末論は、老いや終わりについての問いとして、そのまま私たち一般人類にも当てはまるものだと思います。もちろんこれに対する確かな答えなんて存在しないのですが、それでも私たちは、「奇麗な引き際」「適切な終わり」を考えずにはいられない。
責任世代のあなたに
波勢 最後に、この企画タイトル「責任世代の貴方に」について。
竹屋 本作を観て気づいたのが、これまでに述べてきた「責任」という問題でした。そんなことを考えているうちに、テレビCMのこのフレーズを思い出したんです。壮年サラリーマン層がターゲットであろう、内服薬のCM。
波勢 アメコミを彩ってきたヒーローたちも、影では責任を果たすために薬を服用しているのかもしれませんね。実際、『ザ・ボーイズ』のヒーローたちなんて薬漬けと言ってもいい。
竹屋 責任世代の「貴方」は、第一には彼らヒーローです。だから『X-MEN』が一区切りを迎えた今、まずは彼らを労いたい。とはいえ、あのCMのターゲットである人々もまた、本作を観てもらいたい「貴方」なんです。旧シリーズが実写映画化されて以降の展開を、リアルタイムで追うことのできた世代。会社と家庭、それぞれで負う「責任」に疲れて、薬を飲まずにいられない人々。
波勢 「弱者の解放」「神格化」「責任の先」と、本作から読めるテーマを拾ってきました。ヒーローたちの終わりを思うとき、ヒーローを讃えてきた大衆の側、私たちの「責任」も深められている。本作の秀逸さに気付かされます。
竹屋 もちろん、本作はエンターテイメントです。だから無責任に楽しんで良い作品です。予備知識をガッツリ仕込んで臨む必要もない。本記事を読んで一人でも多くの方が「ヒーローの最期を看取ってやるか」という心持ちになってくれたら嬉しいですね。
波勢・竹屋 ありがとうございました。
X-MEN:ダーク・フェニックス
2枚組ブルーレイ&DVD
10月9日発売 ¥4,000+税
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【プロフィール】
竹屋淡二
たけや・たんじ 1993年、大阪府生まれ。大学での専攻は宗教哲学。アニメ・牛丼・自動車に関心がある。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネット、宗教観察、読書。
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