新連載【夕暮れに、なお光あり】 夕日の豊かさ 渡辺正男 2020年1月11日
キリスト者として「老い」を生きるとは? 高齢者の実存に寄り添いつつ、老いを生きる醍醐味、良く生きるための秘訣を熟練の牧師たちに聖句と共につづっていただく新連載がスタート。月替わりで6人の執筆者にご寄稿いただきます。
塔和子さんの詩「夕映え」の冒頭に、こうあります。「私の人生は 朝も過ぎ昼も過ぎ 夕日のいまだ照っているような」と。私の現状をよく語ってくれているように思えます。
引退してから、かなりの年数になります。しかし、その暮らしにいまだに慣れきれなくて、人生の午後も遅い夕暮れ時をどう受け止め、どう生きるのか、いつも問われているような思いです。
私の最後の任地は、千葉県館山の南房教会でした。よく海辺に出て太平洋に沈む夕日を楽しみました。
「海坂」という美しい古語があります。「うなさか」と読みます。作家の藤沢周平が、「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな孤を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜孤を海坂と呼ぶ」と記しています。館山で見た海坂に沈む夕日は忘れられません。
夕日には、朝日にはない不思議な魅力があります。「日本一の夕日」と銘打った名所が各地にありますね。夕日の魅力は何なのでしょう。
吉田健一の『旅の時間』を読んでいて、こんな文章に出会いました。「夕日っていうのは寂しいんじゃなくて豊かなものなんですね。それがくるまでの一日の光が夕方の光に籠っていて朝も昼もあった後の夕方なんだ」
夕日には、朝の光も昼の光もこもっている。夕日の豊かさは、それまでの一日の光が籠っている故なのだ、と言います。確かにそうですね。これは、歳を重ねてきた私たちの人生の歩みにも言えことではないでしょうか。
引退後の今の日々は、人生の夕暮れ時ですけれど、でも朝も昼もあった後の夕暮れですね。
この夕暮れの時間には、若い時の恥多い日々も、壮年の時の務めに追われた日々も、みな含まれていると言わねばなりません。
その、これまでの歩みのすべてが、恥多きこと悔い多きことも含めてすべてが、主なる神の赦しの中に、「よし」として受け容れられている。その主の赦しの恵みをかみしめる時間として、今の時を与えられているのではないか、私はそう思っています。
病院通いも増しています。気力も体力も衰えてきました。少しずつ、主なる神にお返しするのでしょう。
でも、人生の夕方は、夕日が豊かであるように、これまで以上に主の恵みを味わいかみしめる時なのですね。
「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ書14:7)
わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。