【特別対談】 学科再編で福祉の実践に力 山口陽一(東京基督教大学学長)×木原活信(同志社大学教授) 2020年2月21日
創立30周年を迎える東京基督教大学(TCU、山口陽一学長)は、「Stand in the Gap 破れ口にキリストの平和を」を大学改革のコンセプトとして掲げ、2021年春から2学科4専攻(教会教職、神学、国際キリスト教学、キリスト教福祉学)を、総合神学科の5専攻(教会教職、グローバル・スタディーズ、ユース・スタディーズ、キリスト教福祉、神学教養)に再編するとの構想(変更の可能性もあり)を発表した。
TCUは1980年合同した共立女子聖書学院、東京基督神学校、東京基督教短期大学から、1990年に「福音派」の4年制大学として開学。学生、専任教職員が全員クリスチャンの大学として、キリスト教リベラルアーツを土台に神学、国際、福祉の学びと、教派を超えた交わりを重視してきた。
創立後初となる本格的な学科再編では全員が1、2年を通じて共通科目を学び、3年次から五つの専攻に分かれることになる。アジア神学コース(ACTS-ES)とシニアコース、厚生労働省の介護福祉士養成課程は発展的に解消し、新しいキリスト教福祉専攻では聖書と神学の学びをより身につけた福祉の働き人を育成するとしている。入学定員・収容定員、教会音楽専攻科カリキュラムは現在と変わらない。
改革にあたり、神学と福祉を包摂する教育機関として時代の要請をどのように受け止めたのか。TCUに先んじてキリスト教社会福祉における働き手の育成に携わってきた同志社大学教授の木原活信氏が、山口陽一学長を訪ねた。神学的には対極に位置する両大学だが、「神学と福祉」の実践をめぐる対話では多くの共通課題が浮き彫りとなった。
教会と社会に寄与できる教育
〝「社会問題」と「神学」を分けないことこそ〟
――改革の背景にあるのはどんな課題でしょうか?
山口 牧師の養成機関だった神学校が合同し、30年前から牧師だけでなく信徒献身者の育成を特徴の一つに加えましたが、この方向性は成功だったと思います。この間、各神学校の入学者が減り、神学生の高齢化が課題となる中で、若い献身者を育てることができたことの意義は大きいと思います。ただ、博士課程まで含めて200人という規模の割に課程が複雑になり、学生一人ひとりを育てる上で学校と教職員の賜物を結集する必要が出てきました。時代の求めに応えられるよう、より丁寧に実践的な神学や卒業後に役立つ力を身に着けられるようにしたいというのが願いです。
木原 今回の改革は、総論としては場当たり的でなく非常に考えられた改組だと拝見しました。大学経営の観点からも、守るべきものを守りつつ変えていくということが求められると思いますが、資格取得のためのカリキュラムを少ない定員数で維持するのは難しいし、あまりそれに固執すると専門学校化してしまいかねません。私の知っているいくつかの学校も介護福祉士の資格取得に関しては募集停止の判断に踏み切った経緯があります。ただし、資格としての介護を辞めても、ソーシャルワーク教育をどうしていくかという課題は残ります。社会福祉は机上だけで学べる分野でもありませんので、限られた単位の中で、そのための専門の実習などをどう組み入れるかが問われてくると思います。そもそも当初から「介護」ではなく、なぜ「ソーシャルワーク」でなかったのか不思議ではありますが……。
山口 神学は実践的な学問だと思います。キリシタンの時代に慈悲の所作がどれほど大事だったか、あるいは明治期のキリスト教の先駆的な慈善事業が社会事業に進展し、今日のソーシャルワークの基礎を築いた歴史があります。しかし、神学はもっと貢献できたのではないかと思います。先達の神学部に学びつつ、これまでにない神学部を実現し、日本の教会と社会に寄与したいと思っています。
――先駆的に取り組んできた同志社大学での課題は何でしょう?
木原 同志社はこれから150周年を迎えるところですが、私の所属する社会学部社会福祉学科は1931年まで神学部内に社会事業専攻としてありました。山室軍平や留岡幸助など、社会福祉の先駆者たちは神学生として社会事業を学んでいたわけです。当時は現実にある少年非行や監獄、貧困、売春といった社会問題と神学とを分けて考えていなかったのが特徴です。それ以降、社会福祉学科が神学部から離れ、今では、社会学部の中で国家資格としての社会福祉士と精神保健福祉士の資格養成も行っています。
ところが今、神学部学生の中で関心が高いのは福祉や社会問題の科目です。逆に社会福祉を学ぶ私のゼミに関わるような学生にはクリスチャンが多く、福祉の背後にある神学やキリスト教を学びたいと神学部の授業を受講しています。神学部では「宗教と社会福祉」という科目を新設したりしながら対応していますが、分断してしまった神学と社会福祉の関係について改めて必要なカリキュラムについて神学部の先生と話し合うことがあります。
また、私も一部関わっていますが、関西学院大学神学部でも、他学部の学生や社会人にも開かれた「ディアコニア・プログラム」という取り組みを始め、霊性の神学や福祉との関連性などを実践的に学んでいます。教会が地域と遊離してしまって、社会問題を「語る」けれども具体的な実践が伴っていないという事態は避けなければなりません。
山口 TCUが総合神学科として目指しているのは、まさにキリスト教が本来持っていた福祉的な部分を含んだ神学の醸成です。私も大学の学部時代には古文書を読むような歴史の学びをしながら、福井達雨先生に傾倒し、脳性麻痺をもった方々の自立支援に3年間携わりました。結果的に牧師となりましたが、福祉の方向に進む可能性も十分ありましたので、キリストへの献身は同じだと思っています。召命感をもって福祉の分野で生きる働き手の養成に注力できれば理想的です。
――今後、そのような理念を具体化するために何が必要でしょうか?
木原 これらの話は別段、奇抜なことを言っているわけでもなく、イエス自身がどう歩まれたかということに尽きると思います。イエスは、シナゴーグで説教だけをしていたわけではなく、大宣教命令にあるように痛みと苦難の場所に「出て行って」社会から排除された一人ひとりと関わり続けて出会われたわけです。そのモデルを原点とすれば、現在の神学はどうしても机上のものになってしまっている感が否めません。それでは若者たちが本当の意味で聖書のみ言葉にリアリティをもって生かされている感覚を培うのが難しい。多くの先人も、既定の枠組みにとらわれない生きた言葉と実践の学びによって突き動かされたのだと思います。
今日ではキリスト教社会福祉のロールモデルがないのではと心配される向きもありますが、そんなことはありません。例えばホームレス支援の奥田知志さん(抱樸)、当事者研究の向谷地生良さん(浦河べてるの家)、藤藪庸一さん(白浜レスキューネットワーク)、今、司会をされている佐々木炎さん(ホッとスペース中原)など、社会的にも高く評価されている熱いキリスト教実践者がいます。共通しているのは皆、教団などの組織的支援があるわけでなく、メインラインでもありません。社会の「破れ口」に立って必死で取り組んでいた中から生まれた実践です。それは既存の組織の中で動いている限り生まれにくい。山室軍平にしても石井十次にしても、社会の常識からすれば変わっていた人物だったでしょう。社会を変える人は、周りの空気を読み過ぎたりしません。同志社では、新島襄の遺言から「倜儻不羈(てきとうふき)な書生を圧束せず」との伝統が受け継がれてきました。簡単にコントロールの利かない人物こそ社会を変え得る原動力があり、こういう点も、新しいカリキュラムにどう反映させていくかぜひ期待したいと思います。
山口 学校としてはたいへんな面もありますが(笑)。TCUはキリストへの献身という点のみを共通項として、教派、国籍、年齢の異なる学生たちが寮生活をしますので、教室だけではできない教育を提供しているという自負があります。実際に30年間、在学中は不安だった卒業生たちも予想外の活躍をしています。私たちは机上の神学研究もしっかりやりたいと思っていて、それは必ず実践につながっていくと考えています。召命を牧師の専売にせず、信徒として仕える上で召命を得てほしい。そのために霊的形成のためのディボーション、互いに聖書を学び合うこと、チャペル礼拝を大切にしたいと思います。これはTCUだからこそ全学を挙げて取り組めることなので、今後もさらに大事にしていきたいと思います。
(司会 佐々木炎=ホッとスペース中原代表/構成 松谷信司)
*対談の全文は3月発行の「Ministry」44号に収録。