【緊急提言】礼拝学の視点から(2) 礼拝 守る知恵と工夫を 土井健司(関西学院大学神学部教授) 2020年3月11日
依然、猛威を振るう新型コロナウイルス。状況が刻一刻と変わりつつある中、全国の小中高校、特別支援学校に対し3月2日からの臨時休校が要請され、さらに大きな波紋が広がっている。一部のカトリック教会が相次いで公開ミサの中止を決め、プロテスタント教会でも礼拝を行わないと判断する事例が出始めた。あふれる情報に翻弄され不安ばかりが募る。キリスト者として何を判断基準にすべきか。礼拝学、感染症対策の視点から3氏に提言してもらった。
いま新型コロナウイルスによる、私たちの社会の混乱と不安は大きい。何をすればよいのか、どうすべきかの判断根拠が揺らいできている。特に日本社会では風評というものの影響力は無視しがたいものがあって、これに対する恐れも大いにあろう。そのため何かしら人の集う場を企画する場合、これを予定通りとするのか、中止とするのかは迷いに迷うところがある。
こうした状況下で、いくらかの教会が主日礼拝を中止としたというのもうなずくところがある。飛沫感染というなら、賛美歌を歌うとアブナイというのも理解できよう。
しかし、である。主日礼拝の中止、やはり、それはちょっと行き過ぎではないか。例えばカトリックのミサは、その中心に「エウカリスティア」があり、つまりプロテスタントでいう聖餐式が中心になる。そのため信徒の出席は必ずしも必要ではなく、司祭はミサを執り行い、その祭儀を実施することができるであろう。これに対して私たちプロテスタントの礼拝は、み言葉の朗読とその説教が中心となる。ここにミサと礼拝の違いがある。聖餐式は一つの儀礼として参加者がいなくとも司祭1人で執り行うことができる。しかしプロテスタントの礼拝は、説教を中心とするかぎり牧師が1人で礼拝を行うことはないのである。
したがってプロテスタントの場合、主日礼拝の中止は、1週間の区切りの中で教会として礼拝をまったく行わないことになってしまう。礼拝は集会ではない。人の思いによって企画される集会とは異なって、礼拝は神さまと私たちの関係の事柄であって、私たちにいのちをもたらす。その意味で、集会を中止することとは、まったく別次元のことではないのか。人の思いによって、「する」「しない」を決められるものなのだろうか。これが私には疑問なのである。個人の選択として礼拝に欠席するというのと、教会が主日礼拝を行わないというのとはまったく次元が違うのである。さらに中止を認めたなら、今後、理由があれば主日礼拝を中止してよいということになろう。
今回の中止について、「いのちをもたらす礼拝が、いのちを奪うものとなってはダメでしょう」という声も聞いた。しかし、そのレトリックには用心が必要だ。本当に礼拝がいのちを奪うことになるというのか。今のままの礼拝に出席して感染することがないとは言えないが、その問題はどこにあるのか。礼拝自体が危ういのだろうか、いやむしろ礼拝の仕方、もち方の問題ではないだろうか。なんとか礼拝のもち方を工夫できないものか。例えば人数制限をする、回数を増やすなども考えられよう。存外そこから新しい礼拝のあり様が見えてくるかもしれない。
古来、教会は試練にあうたびに考えてきた。いま礼拝を守るために、知恵と工夫と努力を真摯に求めたい。
(どい・けんじ)