「霊的聖体拝領」の実際 瀬田カトリック教会・小西広志司祭(フランシスコ会) インタビュー 〝無力であることへの自覚が大切〟 2020年5月21日
2月下旬、国内では他の教派に先駆けて「公開ミサの原則中止」に踏み切ったカトリック教会。特に東京教区は感染拡大の初期段階から、オンラインによる関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)でのミサ中継を開始した。この非常事態を、現場の司祭や信徒たちはどのように受け止めたのだろうか。渦中にあって、日々刻々と移り変わる状況と共にフェイスブックでも発信を続けた小西広志司祭(フランシスコ会)に、霊性神学の観点から、プロテスタント教会にはなじみの薄い「霊的聖体拝領」の位置付けなどについて話を聞いた。
〝集えなくても共同体は決して壊れない〟
「オンライン」ミサ、牧会のあり方
「公開ミサ」中止に至った背景
――1月中旬という早い段階で「公開ミサ」の中止に踏み切った背景について教えてください。
かつてSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した際、聖堂入口の聖水を撤去したことがありましたが、同じような対応を迫られるのではという予感がありました。1月末日付で東京大司教区から「注意喚起」が発令された時点で、シンガポールや香港のカトリック教会はすでに「公開ミサ(Public Mass)」を中止にしていました。
2月末に出された2回目の「注意喚起」では、不特定多数の人々が集う教会そのものが感染源になってはならないという呼びかけが菊地功大司教様よりなされました。改めて教会の社会的責任の重さを知った次第です。特に日本の教会は信徒が高齢化しており、ミサや集会を通じて感染する危険性がありました。また、海外からの技能実習生などを含め、たくさんの外国籍の人々が集うというカトリック教会の特徴を考えれば、経済的にも社会的にも弱くされた人々への配慮もしなければならないと思います。
もちろん、集うことが典礼の前提ですので、集えないというのは信仰生活にとって大きな痛手であることは確かです。それでもなお、社会との関わり合いの中で痛みを伴いながら「公開ミサ」を中止するという判断は、社会的な責任を果たす上でも大切だったと思っています。
普段のミサは誰もが参加できるように公開されていますが、今は私の住んでいる修道院でも司祭と修道士だけでミサを行っています。
――集まらずに聖体拝領に与る「霊的聖体拝領」という用語をよく聞くようになりました。
カトリック教会では特に緊急の場合、あるいは特別な事情のある場合には秘跡の霊的な執行があることを認めてきました。例えば、洗礼を望んでいながらも殉教した志願者を「望みの洗礼」と呼び、教会共同体の一員とみなしました。洗礼を受けていなくともキリスト信者の殉教に巻き込まれて命をささげた人は「血の洗礼」と呼んできました。いずれもキリストの受難、死、復活に組み入れられるという視点から、恵みを見てきたからだと思います。
「霊的聖体拝領」についても同様で、ご聖体を何らかの事情で受けることができなくとも、復活した主キリストに呼び集められて集う信徒には、主はその方の心の深いところへと来てくださるとカトリック教会では信じています。主日のミサに集えないことの痛みを抱えながら、信徒の方々には大きな「集い」の中に組み入れられている喜びや感謝があります。皮肉なことですが、「霊的聖体拝領」のおかげで、ミサの大切さや教会のあり方などを考える機会になっているようです。
「霊的聖体拝領」はカトリック教会の中で伝統的に育まれてきた、信仰の一つの表現のあり方です。特に、この十数年、前教皇ベネディクト16世のころから、民法上離婚した信徒は聖体拝領できないという教会の決まりの中で、現実にはそういう方こそ慰めをいただく必要があるとの考えから、聖体拝領そのものはできないけれども、霊的な意味で「聖体をいただいている」と言える、彼らも共同体から排除しないということを示すための「霊的聖体拝領」という理解が深まってきました。今回、それが援用される形となりましたが、聖体拝領には与れないけれども、教会の共同体は決して壊れることはない、というのが最も強調すべき点だと思います。
例えば「ご聖体の前に祈っていれば、遠く離れた息子がご聖体を通して祈ってるだろう。だから結びついている」とか、「ご聖体の前で亡くなった人のことを考えれば、天国にいる人とのつながりが生まれていく」といった考えが、カトリック教会の霊性には強いと思います。主イエス・キリストがすべての中心にいて、すべてを治めているという視点です。
――オンラインでミサに与ること自体にはあまり抵抗がないということですか?
むしろ積極的に受け止められていると思います。先ほども道端で会った信者さんが、「9時からネット配信でミサを見ました。終わってすぐ教会の前に来て聖体の前で祈って帰ります」と話していました。
例えばイタリアでは昔から、日曜日はほとんどのチャンネルでミサの中継をしています。その冒頭では、「このミサの中継によって、事情があってミサに行けない病気の人にも教会の祝福が与えられます」というメッセージが流れます。実際、電波を通して祝福が視聴者に行き渡るかどうかは分かりませんが、画像を見ることによって交わりの中に入れられていくという安心感は大切だと考えています。
一方で、「皆で集まりたい」と願う信徒が大半であることも事実です。カトリック教会の場合、集うことを前提に、神のみ言葉が朗読され、事物がそこになければ秘跡として成り立ちません。パンという事物がキリストの言葉によって聖別されていくわけです。
――プロテスタント教会では、さまざまな事情から一つの教会に属さないという傾向が増え始めていますが、これを機にそうした動きは加速するでしょうか?
カトリック教会は中世以来の考え方が強く、地域による教会の区分割りがありますので、そこから出て好きなように教会を選ぶとか、あるいは他教派に移っていくということは本来あってはならないものです。ですから、小教区(parish)と信徒との関係は、プロテスタントよりも密かもしれません。
私も3月まで二つの教会の主任司祭でしたが、ミサが中止された時と復活祭の後の2回、全信徒に1千通近くの手紙を送りました。皆さんのことを忘れていませんよ、という教会側の誠意を表したかったからです。1回8万円ほどの費用がかかるので教会の委員からは懸念もありましたが、とても喜ばれました。中には「もう送らないでください」という人もいましたが、人と人とのつながりにこそ、お金を使わないといけません。
〝無力であることへの自覚が大切〟
「コロナ以後」の教会と社会
――今後収束した後の教会はどうなっていくと思われますか?
たとえ収束したとしても、コロナ以前に戻るということは決してないでしょう。教会は社会のあり方をそのまま映し出す鏡だと思うので、社会の影響は大きく受けると思います。「今さえ良ければいい」「自分さえ良ければいい」というような風潮は教会の中にも出てきて、ご聖体であるパンという事物ばかりにこだわり、それをいただくことだけに強い関心を示す信徒は今後も生まれてくるでしょう。彼らは「集い」を軽視するようになると思います。逆に「集い」ばかりを強調しすぎた結果、自分たちに都合のよい信仰共同体を求め、他者を排斥するような信徒の一群も生まれてくる危険性はあります。
教会内のさまざまなところにヒビが入るような事態は生じるような気がしています。時間や考え方、政治的なスタンスで、一枚岩になれずに分裂や対立が顕在化するのではないかという危惧もあります。だからこそ今、教会とは何なのかということが問われています。
――ミサのあり方や位置付けが変わるということもあり得ますか?
しばらくの間、「3密」を防ぐための人数制限はあり得るかと思いますが、礼拝そのものの形が変わっていくということはないと思います。司祭としてのうがった見方ですが、もしかしたら、神の裁きがこういうところで始まっていて、信仰者はますます信仰篤くなっていって、そうでない人は教会から離れていくのかもしれないと、冷めた見方をしてしまう部分もあります。
――イタリアの惨状が報じられています。
自分たちも、さらには教皇様ですらも、この事態に対して無力なんだということに気がつき始めています。だから祈るしかない、赦しを乞うしかないんだと。83歳の教皇が身をかがめて歩く姿に、信徒たちはとても共感を覚えています。16世紀に疫病が流行った時に市内を練り歩いた十字架があるんですが、それをサン・ピエトロ広場に運んで接吻する教皇の姿が撮影されていました。十字架の贖いに私たちが与っていく、十字架と私たちの苦しみは無関係ではないということを表す良い印になったと思います。
――東日本大震災との違いは感じていますか?
10年前は「何かできる」「できることをしましょう」から始まっていたような気がしますが、今の「何もできない」という無力感はとても辛いですね。東京の菊地大司教のメッセージでも、「無力だからこそ神の力が働く」と呼びかけられました。この厳しい事態を乗り切るためのみ言葉がほしいと願っていたので、ありがたいメッセージでした。やっぱりプロテスタント教会はそういうことが上手ですよね。ご聖体だけでなく、信徒がみ言葉に照らされて乗り切ってくれたらと願っています。
――今、キリスト教を含む宗教界に求められていること、できることは何でしょうか?
やはり、無力であるということを自覚するのが大切ではないでしょうか。人類は貧しく、力なく、罪人なのです。この真実を深く悟ることです。また、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である」(ルカ22:19)というイエス様の最後の晩餐での言葉が、実は新型コロナウイルス対策に関わるすべての人々のこころに響いているのだと気づくべきではないでしょうか。医療従事者たち、運輸従事者たちは感染の危険を顧みず、人々のために自分の命をささげています。こういった犠牲的なあり方を可能とするのは、キリストの受難と死における自己譲渡があったからだと思います。苦しみ、悲しむ社会の中に主の言葉が響いていると信じて生きていくことが、私たちに求められていると思います。
――ありがとうございました。(聞き手 松谷信司、全文は「Ministry」45号に掲載)
こにし・ひろし 1962年生まれ。上智大学文学部卒業、93年小さき兄弟会(フランシスコ会)入会。2000年司祭叙階。教皇庁立ローマ・アントニアヌム大学修了(教義神学専攻)。現在、瀬田カトリック教会主任司祭。